長江庄(読み)ながえのしよう

日本歴史地名大系 「長江庄」の解説

長江庄
ながえのしよう

阿賀川上流の現田島たじま町・下郷しもごう町・舘岩たていわ村および栃木県藤原ふじはら町・塩原しおばら町の一部を含んだ摂関家領庄園。領家は藤原氏大学別曹の勧学院地頭下野長沼氏。南山みなみやま庄とも単に南山とも称した。寛喜二年(一二三〇)八月一三日の長沼宗政譲状(皆川文書)に「陸奥国南山」とみえ、下野国長沼ながぬま(現栃木県二宮町)とともに嫡子時宗に譲られており、長沼氏は鎌倉時代初期に当庄の地頭職を得たと思われる。弘安六年(一二八三)三月二七日、宗泰(時宗の子)は当庄などを孫の宗秀に譲るが、当庄のうち権藤太跡はその後家一期の後に知行することと定めている(正安元年一二月六日「将軍家久明親王政所下文」園城寺文書)。嘉元三年(一三〇五)四月頃、藤原氏の長者職が二条兼基から九条師教へ移った際に作成されたと考えられる摂渡庄目録(九条家文書)に氏院(勧学院)領の一つとして弁別当経世朝臣の注記で「陸奥国 長江庄」とみえ、氏の院の別当である藤原経世は預所と考えられる。またほかの庄園と異なって田積や所当などの記載がないのは、当時すでに不知行化していたからであろう。

正和元年(一三一二)四月一四日、宗秀は庶子宗実に庄内奈良原ならはら(現下郷町)地頭職を譲っているが、権藤太跡は如忍一期ののち知行することと定めている(「長沼宗秀譲状案」皆川文書)。元徳三年(一三三一)九月一五日、宗実は奈良原郷地頭職を惣領高宗に譲り、庄内の長田ながた(現田島町)のうち「まめわた」(大豆綿)・「しなし」(支那支)は長犬一期ののちに知行することと定めている(「長沼宗実譲状案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android