長曾郷(読み)ながそねごう

日本歴史地名大系 「長曾郷」の解説

長曾
ながそねごう

狭山さやま(現南河内郡狭山町)を源とする西除にしよけ川中流の西に位置し、現長曾根ながそね町を中心とする一帯。鎌倉中期には日置ひき庄や金太かなた郷とともにその地に河内鋳物師が居住し、蔵人所左方灯炉作手として編成されていた(文永三年一二月一三日「中原光氏下文写」阿蘇品文書)。文永九年(一二七二)四月、河内御家人薩摩前司憲俊が長曾禰郷住人が大番役催促に応じないことを訴えたため、大宅某が長井八郎三郎入道に対して、傍例に任せて成敗するよう命じている(同月二九日「大宅某書下案」和田文書)。この薩摩前司憲俊は後述する北刑部丞憲清の子で河内国の在庁官人に出自をもち、長曾禰・金太両郷を基盤とする在地領主である。

正平年間(一三四六―七〇)金太郷惣判官代職とともに長曾禰郡司職をめぐる相論が生じている。同七年一二月、和泉御家人和田蔵人助氏が父助康より譲与された「河内国金太郷惣判官代職長曾禰郡司職等」を国宣により安堵されていたところ、同年一〇月一三日の教興きようこう(現八尾市)雑掌の訴えにより、永仁六年(一二九八)の金太庄立庄の官符を理由として両職を収公するという国宣が出された。このため、助氏は重ねて安堵の国宣を賜りたいとの訴えを起こしている(正平七年一二月日「和田助氏言上状案」和田文書)。助氏の主張によれば「河内国金太惣判官代職」と「長曾禰郡司職」は先祖の北刑部丞憲清が延応年中(一二三九―四〇)鎌倉幕府より安堵の下文を得て、それ以来憲俊・憲延・重康と代々相伝してきたものとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android