長岡城下(読み)ながおかじようか

日本歴史地名大系 「長岡城下」の解説

長岡城下
ながおかじようか

信濃川右岸と支流栖吉すよし川左岸の間に築かれた長岡城を中心とする城下町。慶長七年(一六〇二)蔵王堂ざおうどう城主堀親良のあと養子鶴千代の後見役として入城した堀直寄により、蔵王堂城南の当地に長岡城築城が行われた。この地は天正村名考(温古之栞)に「平潟へり 百九十八軒」と伝えるところと考えられており、文和四年(一三五五)四月二九日の羽黒義成軍忠状(三浦和田羽黒氏文書)にみえる「大島庄平方原」にあたる地域といわれる。現在おもて町一丁目に平潟ひらかた神社があるが、もとは城地東寄りにあり、築城の際に同地に替地を得て移ったという。慶長一〇年五月一一日の堀甲斐守より彦二郎宛長岡町屋敷安堵状(草間文書)には「八間口之屋敷、堀のきわまて本町之内」「九間口之屋敷、うら町」「五間口之屋敷、渡り町」「八間口之かやつミは、払とをし」とあり、肝煎給として彦二郎に屋敷一軒につき納分一斗が下されている。ここに堀とあるのは、文久二年(一八六二)写延宝年中(一六七三―八一)の長岡町割絵図(安禅寺文書)には観光院かんこういん町裏手の川から分流している。またほん町は現在の表町をさし、かやつみ場は現在の上田うえだ町辺りで、同町の徳聖とくしよう寺の薬師堂はかつてかやばの薬師とよばれていた。わたり町は現在の渡里わたり町である。慶長一五年堀直寄は築城途中で信濃国飯山いいやま(現長野県飯山市)へ転封となるが、元和二年(一六一六)再び長岡に入封して引続き築城に着手。同年堀直寄より長岡本町屋敷付与状(草間文書)には「本町通東側屋鋪之裏、余地、一之町より五之町まて東側之者遣候条」とあり、表町に一之町から五之町までの町割がなされている。同年のものと推定される五月九日付の堀直寄書状(同文書)には「長岡うら町」忠左衛門に宛て杉原紙の到来を謝しており、うら町の成立も知られる。しかし堀直寄は、同四年城郭・城下の建設を放棄して村上へ移封となった。築城工事は同年代わって入封した牧野忠成によって完成された。元和七年、家中の屋敷割、翌八年町割を設定。家中の屋敷割は、禄高三〇〇石から二〇〇石までが屋敷の広さ方二五間、二〇〇石から一〇〇石まで方二四間、九〇石から五〇石まで二〇間の一七間、四〇石以下の徒士組は二〇間の一五間。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報