金津庄(読み)かなつのしよう

日本歴史地名大系 「金津庄」の解説

金津庄
かなつのしよう

町の内日角うちひすみもり鉢伏はちぶせ上田名うわだな以北と七塚ななつか町の全域、高松たかまつ町高松・長柄ながら町・若緑わかみどり以南を庄域とする。「かなづ」とも訓ずる。京都上賀茂社領。寿永三年(一一八四)四月二四日の源頼朝下文写(賀茂別雷神社文書、以下同文書は省略)で源頼朝が安堵した上賀茂社の神領に「加賀国 金津庄」とある。正安二年(一三〇〇)三月二三日の関東下知状に寛治立券状があったとみえることから、寛治四年(一〇九〇)七月一三日朝廷が賀茂上下社に不輸田六〇〇余町を寄進したとき(百錬抄)、成立したと考えられる。建保三年(一二一五)三月三〇日、「かなづの百姓」が賀茂太田かもおおた(現京都市北区の大田神社)禰宜清平の白山神人殺害を賀茂社に訴え(桜華記)、また同年一二月二五日には白山宮の本寺延暦寺が清平の社職解任を求めて強硬に訴えたため、朝廷は翌四年二月に同人の社職罷免を通告した(「百錬抄」、「賀茂社家系図」賀茂三手文庫蔵)。貞永二年(一二三三)三月一三日の延暦寺政所下文案(貫達人氏所蔵文書)によれば、当庄住人が日吉・白山神人と号して賀茂社の支配に抵抗している状況がうかがわれ、先に殺害された白山神人も当庄の住人であったと推考される。

〔境界相論〕

正安二年の関東下知状は、当庄雑掌祐豪と南接する北英田きたあがた保地頭代覚心との境界相論を幕府が裁定したもので、前欠だが相論の趣旨は以下の四点からなる。(一)河北潟干潟を開作した田畑の帰属問題。寛治の立券状は金津庄の南限を湖としており、河海を境とする際はその中心をもってするという通例に従い、幕府は田畑を当庄に付した。(二)当庄南東部の境界付近にある吉次・安守・重国名田、吉次屋敷、小白山神田公文在家、大宮神田・友重・貞広(貞弘)・高広(高弘)名等作名田、大矢阿弥陀堂講田の帰属問題。祐豪は「阿里河」が境界であり、弘安六年(一二八三)以後覚心が押領していると主張したが、覚心は「阿里河」に合流する「示河」が境界と反論している。幕府は名称は不明だが絵図上の河は一本であり、河以西の吉次から小白山神田公文在家は当庄に付し、境不明の大宮神田から大矢阿弥陀堂講田は重ねて尋究するとした。「阿里河」は現宇ノ気町の鉢伏とたにの境の阿里子ありご谷を流れる悪水あくすい川にあてるのが妥当か。(三)大矢東おおやひがし(現上田名地内か)の帰属問題。祐豪は寛治の立券状に「限東大矢東山」とあるのに、覚心がこれを越えて山林を押領したと訴え、覚心は境は菩提ぼだい(現菩提寺峰か)と反論。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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