那波村(読み)なばむら

日本歴史地名大系 「那波村」の解説

那波村
なばむら

[現在地名]相生市那波・那波東本町なばひがしほんまち那波本町なばほんまち那波西本町なばにしほんまち那波南本町なばみなみほんまち那波大浜町なばおおはまちよう大島町おおしまちよう竜泉町りゆうせんちようみどりおか一―四丁目・山崎町やまさきちよう西谷町にしたにちよう青葉台あおばだい

相生おお村の西、那波浦(現相生湾)の湾奥に位置し、同湾に注ぐ苧谷おこく川の河口洲と後背の山地・丘陵地に立地する。難波とも記す。那波浦は湾の最奥に当村、西岸佐方さがた村、中ほどに相生村があり、近世末まで厳密に区別せず相生浦・佐方浦・那波浦などと称されていた。

「万葉集」に日置少老詠として「縄の浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山にたなびく」、山部赤人詠として「縄の浦ゆ背向に見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも」とみえる。「縄の浦」は当地に比定される。保延三年(一一三七)一〇月二三日の矢野庄立券文案(白河本東寺百合古文書)雨打あまうち(雨内野)・佐方野と並んで那波野とみえ、開発予定地として庄域に加えられていた。一三世紀に入ると田畠の開発が進み、建仁―元久年間(一二〇一―〇六)、さらに貞応二年(一二二三)と繰返し検注が行われた(「例名文書目録」教王護国寺文書など)。建武四年(一三三七)六月日に書写された建治二年(一二七六)那波浦領家方公畠名寄帳(東寺百合文書)によると、為平名・国友名など一七名で計五町六反余の公畠があった。那波浦は佐方浦と地域的にひとまとまりととらえられ、預所職・地頭職については「浦分」として別に相伝された。文保元年(一三一七)三月一八日後宇多法皇から、重藤名と佐方浦とともに京都東寺に寄進された(「後宇多法皇院宣」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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