和泉式部(読み)イズミシキブ

デジタル大辞泉 「和泉式部」の意味・読み・例文・類語

いずみ‐しきぶ〔いづみ‐〕【和泉式部】

平安中期の女流歌人。大江雅致おおえのまさむねの娘。和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍を産んだ。為尊ためたか親王、次いでその弟の敦道あつみち親王と恋をし、上東門院彰子に仕えてのち藤原保昌に嫁するなどした経歴から、恋の歌が多い。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「和泉式部」の意味・読み・例文・類語

いずみ‐しきぶ いづみ‥【和泉式部】

[1] 平安中期の女流歌人。中古三十六歌仙の一人。大江雅致(まさむね)の娘。和泉守橘道貞と結婚し小式部内侍を産む。また、為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王と恋愛し、のち藤原保昌と再婚するなど一生を恋愛に終始し、情熱的な歌をよんだ。「和泉式部集」「和泉式部日記」がある。生没年不詳。
[2] 〘名〙 和泉式部に仮託した伝説。墓や木像、手植えの梅などと称するものが全国にきわめて多い。水辺で宗教行為を行ないつつ回国した女性たちが、この伝承を広めたともいわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「和泉式部」の意味・わかりやすい解説

和泉式部 (いずみしきぶ)

平安中期の女流歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。《後拾遺集》をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。式部の父は,朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に,太皇太后宮大進として仕え,母も同内親王に仕えていたから,式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。20歳のころ,父の推挙で和泉守となった太皇太后宮権大進橘道貞の妻となった。和泉式部の名は,夫が和泉守であったことによっており,父が式部丞ででもあったものかと思われる。2人の間にはまもなく小式部内侍が生まれ,式部は夫の任国和泉に下ったこともあったが,10歳ばかり年長の夫にはあきたりないものがあったらしく,冷泉天皇の皇子弾正宮為尊親王との恋愛に陥った。しかし,親王は1002年(長保4),26歳で亡くなった。一周忌も近い翌年春,為尊親王の弟帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王から求愛された。この兄弟は,母の女御藤原超子の死後,昌子内親王のもとで成長したから,式部に近づく機会は多かったと想像される。歌の贈答が続くうちに,敦道親王は04年(寛弘1),周囲の反対に抗して式部を自邸に引きとり,そのため宮妃は邸を出るというまでになった。この間の恋愛の経緯を140余首の歌を中心に,自伝的に記したのが《和泉式部日記》である。しかし,この親王も07年に27歳の若さで亡くなった。式部の悲嘆は深く,《和泉式部集》の親王への哀傷の歌120余首がそれを伝えている。09年,式部は藤原道長の召しによって,娘の小式部内侍とともに道長の女中宮彰子に仕えた。彰子のまわりには,紫式部,赤染衛門らがいた。式部は女房として仕えるうちに,道長の家司藤原保昌の妻となり,丹後守に任ぜられた夫に伴われて同国へ下った。25年(万寿2),若くして歌人として名を知られた小式部内侍に先立たれ,悲しみに沈んだが,33年(長元6)以後の諸記録に式部の名を見いだすことはできない。20歳ほど年上の夫保昌は,36年摂津守在任中に79歳で死んだが,2人がいつまで親密な関係にあったかはわからない。式部の没年には諸説があるが,不明とせざるをえない。式部と恋愛の関係にあった人物は,上記のほかにも数人あり,小式部内侍のほかにも子があったと考えられる。〈黒髪の乱れも知らずうち伏せばまず搔きやりし人ぞ恋しき〉(《和泉式部集》正)。

 つぎつぎに恋の遍歴を重ね,敦道親王との関係では世間の非難を浴びた式部は,道長から〈うかれ女〉といわれたように,奔放な生涯を送った。そのため式部は早くから,紫式部の貞淑,清少納言の機知,赤染衛門の謙譲に対して,愛情一筋に生きた女の典型と考えられ,艶麗な美女として語られるようになり,平安時代末以降,数々の説話に登場することとなった。道貞と別れたころ,山城の貴布禰社に参籠した式部が,夫が戻るように祈る歌を詠んだところ,貴布禰明神の慰めの歌が聞こえたという説話が《無名抄》《古本説話集》その他にあるが,神をも動かすような歌の作者としての説話は少なくない。また,藤原道綱の子で好色の僧道命阿闍梨が,式部のもとへ通ったという《宇治拾遺物語》の説話をはじめ,式部は種々の恋愛譚に登場する。さらに,小式部内侍に先立たれて悲しみにくれる話は《宝物集》以下多くの説話集に見え,病む小式部が母のために命ながらえたいと祈ったところ,一度は病が治ったという《十訓抄》などの話とともに,母と娘の愛情の話として語られた。無常を感じた式部が書写山の性空聖人を訪ねて道心をおこす《古本説話集》の話も,のちに種々の変容をみせている。室町時代以降,式部の名は広く知られ,各地に伝説を残すようになった。御伽草子の《和泉式部》では,道命阿闍梨を式部と橘保昌(2人の夫を合わせた名になっている)の間の子とし,通ってくる僧が幼いときに捨てたわが子であることを知った式部が発心するという話になっている。謡曲には,《貴布禰》《東北》《鳴門》《法華経》をはじめ数々の曲に登場するが,かつて名歌を詠んだ式部が,罪障を懺悔して諸国を行脚するといった趣向のものが多い。また歌舞伎には《和泉式部千人男》,人形浄瑠璃には《和泉式部軒端梅》などがある。このように式部の名が広く知られるようになる背後には,式部の生涯を語る唱導の女性たちがあったらしく,式部の誕生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十ヵ所に及び,墓の数もそれに劣らない。墓所の一つ京都市中京区の誠心(じようしん)院は,唱導の徒の拠点であった。各地に伝えられる式部の伝説には,瘡(かさ)を病んだ式部が,日向国の法華岳寺の薬師如来に平癒を祈ったが,いっこうに効験がないので〈南無薬師諸病悉除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ〉と詠むと,夢の中に〈村雨はただひと時のものぞかし己が身のかさそこに脱ぎおけ〉という返歌があって,難病もたちまちに平癒したという話や,アユ(鮎)の腸を意味する〈うるか〉ということばを,たくみに詠みこんださまざまな秀歌を作ったという話など,歌にまつわるものが多く,中には小野小町や西行の伝説と同じ内容のものもある。また,佐賀県には,式部が鹿の子であったために足の指が二つに割れており,親がそれをかくすために足袋というものを作ったという伝説もある。
和泉式部集 →和泉式部日記
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和泉式部 (いずみしきぶ)

御伽草子。作者不詳。成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。ある時,宮中の法事に召された道命は年のほど30ばかりの女房を見そめ,契るにいたったが,その女房は実は母和泉式部であった。相手がわが子であることを知った式部は,“憂き世”を捨てて播磨国書写山で出家をとげるという発心譚。道命は藤原道綱の子で著名な歌人,はやく《古事談》や《宇治拾遺物語》,くだっては御伽草子《小式部》にも和泉式部との交渉が語られるが,それらが両者を男女関係とするのに対し,母子関係を設定する点に本書の特徴がある。また〈橘保昌〉という人名は,和泉式部の2人の夫〈橘道貞〉と〈藤原保昌〉が伝承の過程で混同されたものと考えられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和泉式部」の意味・わかりやすい解説

和泉式部
いずみしきぶ

生没年不詳。平安中期の女流歌人。大江雅致(まさむね)の女(むすめ)。母は平保衡(やすひら)の女であるとも。生年は円融(えんゆう)朝(970年代)とする説が有力。「雅致女式部」(拾遺集)、「江(ごう)式部」(御堂関白記(みどうかんぱくき))という女房名があることから、娘時代すでに出仕の経験があったと想像され、出仕先は大進(だいしん)であった父の縁で、冷泉(れいぜい)皇后昌子内親王のもとであったといわれる。やがて999年(長保1)までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚、和泉守(いずみのかみ)であった夫の官名から以後は「和泉式部」と一般によばれるようになった。2人の間にはまもなく娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、弾正尹(だんじょうのかみ)為尊(ためたか)親王(冷泉第3皇子)、大宰帥(だざいのそち)敦道(あつみち)親王(冷泉第4皇子)との相次ぐ恋愛事件によって夫婦の生活は破綻(はたん)し、父雅致からも勘当を受ける身の上となった。このうち帥宮(そちのみや)との恋愛の経緯は『和泉式部日記』に詳しい。その宮とも1007年(寛弘4)には死別し、悲嘆に暮れる式部の心情は、「家集」中の120余首にも上る挽歌(ばんか)群として結晶している。1009年、召されて上東門院(藤原彰子(しょうし))のもとに仕え、それが機縁となって藤原道長(みちなが)の家司、藤原保昌(やすまさ)に再嫁、夫とともに任国の丹後(たんご)(京都府)に下ったこともあった。1025年(万寿2)冬、娘の小式部が20歳代の若さで没し、そのおりにも子を悼む母親の痛哭(つうこく)の歌を残している。以後、晩年の式部の消息はさだかでないが、1027年9月、皇大后藤原妍子(けんし)の七七日の法事に、保昌にかわって玉の飾りを献上し、詠歌を添えたという記事が生存を伝える最後の記録となっている(『栄花(えいが)物語』玉の飾り)。即興即詠の日常詠はもとより、定数歌や連作、題詠など制約のある詠作のなかにも、式部の鋭敏な感性と揺らめく情念はみごとに形象化されており、新鮮で自由な用語を駆使したその叙情歌の数々は、平安中期最高の歌人の名にふさわしい作品群として輝いている。作品の大部分をとどめる「家集」には、902首を収める『和泉式部正集』、647首の『和泉式部続集』などがある。

 くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端(は)の月
[平田喜信]

和泉式部伝説

平安中期女流歌人を主人公とした叙事伝説。実在の和泉式部とは無関係。生地も、北は岩手県から南は九州まで全国にわたって散在し、墓も数多い。もっとも多いのは和歌を中心とする伝承で、代表的なものはおよそ三つの型に分けられる。

(1)うるか問答 式部が書写山参詣(さんけい)の途次泊まった家の娘に綿を売るかと尋ねると、鮎(あゆ)のはらわたである「うるか」のことを歌で答える。その娘は、式部が五条で捨てた子であった。

(2)瘡(かさ)の歌 瘡を患った式部が参籠(さんろう)中に、薬師(やくし)の返歌で平癒する。薬師信仰に運ばれた伝承。

(3)式部と高僧との歌問答 有名なのは書写山性空(しょうくう)に贈った歌の話。御伽草子(おとぎぞうし)『和泉式部』にもとられ、わが子と知らず道命法師と恋をすることになっている。

 これらの伝承を運んだのは、小町、紫式部、静御前(しずかごぜん)、虎(とら)御前などの女性伝承を伝えた一群の人々と同じで、泉や川辺に宗教行事を行いながら回国した女たちと考えられる。その寄留地として有力なのが京都誓願寺で、墓や式部手植えの梅のほかに、『誓願寺縁起絵巻』にも式部がみえる。多くの伝承から謡曲にも『誓願寺』をはじめ9曲ほどの式部物がある。

[渡邊昭五]

『吉田幸一編『和泉式部全集』本文篇(1959・古典文庫)』『寺田透著『日本詩人選8 和泉式部』(1971・筑摩書房)』


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朝日日本歴史人物事典 「和泉式部」の解説

和泉式部

生年:生没年不詳
平安時代の歌人。父は越前守大江雅致。母は越中守平保衡の娘で,冷泉天皇の皇后昌子に仕え,介内侍と呼ばれた女房であった。橘道貞と結婚。夫が長保1(999)年に和泉守となったことから和泉式部と呼ばれ,のちに小式部内侍と呼ばれる娘も生まれたが,やがて不和が生じ,道貞と別居。親からも勘当された。ほどなく冷泉天皇の第3皇子である弾正宮為尊親王の寵愛を受けたが,親王は疫病で同4年に死去。その後1年も経ずに為尊親王の同母弟である帥宮敦道親王の求愛を受け,同5年の末に親王邸に移った。敦道親王と式部は,藤原公任と3者で和歌を詠みあったり,特異な形の牛車に同乗して賀茂祭を見物し注目を集めたりしたが,親王は寛弘4(1007)年に病死した。やがて,藤原道長の娘である一条天皇の中宮彰子に女房として出仕。藤原保昌と再婚。その後,娘の小式部内侍に先立たれたが,式部自身の晩年の動向は明らかでない。 奔放な異性関係から,藤原道長に戯れに「浮かれ女」といわれるなど,とかくの風評があったが,「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」の一首をはじめ,数多く残されたその和歌には,身のなりゆきを素直に受けとめた深い詠嘆が感じられる。その和歌は真情がそのまま歌となったような趣があるが,率直で大胆な作風は当時にあってきわめて個性的であり,現代に至るまで高い評価を受けている。『拾遺集』以下の勅撰集に多数の作が入集。また,敦道親王との恋を物語的に記した『和泉式部日記』には他作説もあるが,式部自作とする見方が有力である。早くからさまざまな和歌説話の主人公とされ,「東北」などの謡曲の素材となる一方,後世,女性の性にまつわる罪障とその宗教的救済を主題とする説話に特に式部の名や歌が用いられ,民間信仰とも結合して全国に多くの墓や供養塔が出現することにもなった。

(山本登朗)

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百科事典マイペディア 「和泉式部」の意味・わかりやすい解説

和泉式部【いずみしきぶ】

平安中期の歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。のち和泉守となる橘道貞と結婚,小式部内侍を産んだ。冷泉天皇の皇子,帥宮(そちのみや)敦道親王との恋愛の経緯を140余首の歌を中心にして記す《和泉式部日記》の作者として名高い。のち藤原保昌と結婚。和泉式部についての記録はその晩年にいたって乏しく,波瀾にとんだ生涯はさまざまな伝説をうんだ。家集に正・続の《和泉式部集》があり,《拾遺和歌集》以下の勅撰集に約240首入集。
→関連項目赤染衛門後拾遺和歌集袴垂保輔藤原保昌紫式部日記

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「和泉式部」の意味・わかりやすい解説

和泉式部
いずみしきぶ

[生]貞元1(976)頃
[没]長元9(1036)頃
平安時代中期の女流歌人。父は大江雅致 (まさむね) ,母は平保衡 (やすひら) の娘。父母ともに縁のあった冷泉天皇皇后昌子 (しょうし) のもとに早くから出仕したらしい。 20歳前後で和泉守橘道貞 (みちさだ) と結婚し,小式部内侍 (こしきぶのないし) を生んだが,冷泉天皇皇子為尊 (ためたか) 親王と関係し,道貞と離婚。長保4 (1002) 年為尊親王と死別,翌年夏頃からその弟敦道 (あつみち) 親王と関係が生じた。寛弘4 (07) 年敦道親王とも死別,同6年頃一条天皇中宮彰子 (しょうし) に再出仕した。その後藤原保昌 (やすまさ) と再婚。万寿2 (25) 年小式部内侍に先立たれる不幸もあった。最終詠歌は同4年皇太后妍子 (けんし) 追善歌。多感で清新な詠歌は傑出しており,『拾遺集』以下の勅撰集に 250首近く入集し,家集『和泉式部集』がある。『和泉式部日記』は敦道親王との愛情の成立過程を記したもの。和泉式部にまつわる説話,伝説は,民間信仰と結びついて広く各地に分布している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「和泉式部」の解説

和泉式部
いずみしきぶ

生没年不詳。平安中期の歌人。「和泉式部集」「和泉式部日記」の作者。大江雅致(まさむね)の女。母は平保衡(やすひら)の女。和泉式部は女房名で,江(ごう)式部ともよばれた。20歳頃に橘(たちばな)道貞と結婚,小式部内侍(こしきぶのないし)をうむ。やがて冷泉天皇の皇子為尊(ためたか)親王,その死後は弟の敦道(あつみち)親王との恋におちた。その経緯は「和泉式部日記」に詳しいが,1007年(寛弘4)敦道親王にも先立たれ,09年一条天皇の中宮彰子(しょうし)のもとに出仕した。その後,藤原保昌(やすまさ)と再婚,27年(万寿4)までの生存が確認できる。平安中期を代表する歌人の1人で,新鮮で情熱的な叙情歌が多い。中古三十六歌仙の1人。「拾遺集」以下の勅撰集に248首入集。奔放な恋愛と和歌はのちさまざまの説話・伝説をうんだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和泉式部」の解説

和泉式部 いずみしきぶ

?-? 平安時代中期の歌人。
大江雅致(まさむね)の娘。母は平保衡(やすひら)の娘。長徳2年(996)和泉守橘道貞(たちばなの-みちさだ)と結婚,小式部内侍(こしきぶのないし)を生む。夫と別居後,為尊(ためたか)親王,敦道(あつみち)親王の求愛をうけたがともに死別。のち中宮(ちゅうぐう)彰子(上東門院)につかえ,藤原保昌(やすまさ)と再婚した。中古三十六歌仙のひとりで,「拾遺和歌集」などの勅撰集に多数の歌がのる。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある。万寿2年(1025)娘の小式部内侍に先立たれている。
【格言など】あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度(ひとたび)の逢ふこともがな(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「和泉式部」の解説

和泉式部
いずみしきぶ

生没年不詳
平安中期の女流歌人
本名不明。越前守大江雅致 (まさむね) の娘で,和泉守橘道貞に嫁したので和泉式部という。道貞との間に娘小式部内侍を生んだが離別。冷泉天皇の皇子為尊 (ためたか) ・敦道 (あつみち) 親王との恋愛生活は当時すでに有名であった。情熱的な歌が多い。『和泉式部集』『和泉式部日記』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の和泉式部の言及

【敦道親王】より

…生母超子(ちようし)(藤原兼家の娘)の美貌をうけて容姿端麗であったうえに,文才に恵まれ,和歌のほか漢詩をもよくした。和泉式部との恋愛事件が衆人の関心を呼んだことは,《栄華(花)物語》や《大鏡》に詳しい。《和泉式部日記》中の和泉との贈答歌によって,その歌才のほどがうかがえる。…

【和泉式部】より

…成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。…

【和泉式部集】より

…歌集。和泉式部の家集。正集,続集,宸翰(しんかん)本,松井本,雑種本の5類があり,その総称。…

【東北】より

…作者不明。シテは和泉式部の霊。旅の僧(ワキ)が都に着き,東北院の梅を眺めていると,若い女(前ジテ)が現れ,この寺はもと中宮上東門院の御所で,そのころ仕えていた和泉式部が植えたのがこの梅だと教え,実は自分がこの花の主(あるじ)だといって姿を消す。…

【和泉式部】より

…母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。…

※「和泉式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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