身延・身延町(読み)みのぶ・みのぶまち

日本歴史地名大系 「身延・身延町」の解説

身延・身延町
みのぶ・みのぶまち

[現在地名]身延町身延

現身延町の中央部西側、南流する富士川西岸、身延山の南東麓に位置し、北東は下山しもやま村、東は波木井はきい村、南は小田船原おだふなはら村および富士川支流波木井川対岸の梅平うめだいら村に接する。小田船原村との境の鷹取たかとり山北方を水源とする身延川(身延沢)が中央部を貫流し、波木井川に注ぐ。中世以降、日蓮宗総本山久遠くおん寺の門前町として栄えた。門前駿州往還が通り、身延宿とも称された。「甲斐国志」は古くは蓑夫と記し、文永一一年(一二七四)の日蓮来住後に身延に改めたとするが、確証はない。しかし「西行法師家集」に「雨しのぐみのぶの郷のかき柴にすだちはじむる鶯のこゑ」の歌が載り、同歌を収録する「夫木抄」が「みのぶのさと 甲斐」としていることから、日蓮以前に「みのぶ」の地名が存在したことが知られる。

〔中世〕

文永一一年二月、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰った日蓮は信者である波木井郷の地頭波木井(南部)六郎実長の招きに応じて、五月一二日に鎌倉を立ち、一七日に波木井に着いた(弘安五年一〇月七日「日蓮書状」日蓮聖人遺文など)。六月一七日には身延山の山中に庵が完成し、そこで隠棲生活が始まり(建治年間「日蓮書状」同遺文)、ここから多くの信者宛に書状を発している。そのなかで、日蓮は自分の在所を「身延嶺」「身延山」「身延沢」と表記するほか、「身延の嶽」「身延河」「身延の滝」などの表現を用いており、当時の身延は身延山を中心とし、「南は野山漫漫として百余里に及へり、北は身延山高く峙て白根か嶽につつき、西には七面と申山峨峨として白雪絶えす、人の住家一宇もなし」という状況であった(建治二年一二月九日「日蓮書状」同遺文)。身延山は波木井郷内に位置していたため、「はきゐの山の中」「波木井郷山中」とも記されている(年月日未詳「日蓮書状」同遺文など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報