赤湯村(読み)あかゆむら

日本歴史地名大系 「赤湯村」の解説

赤湯村
あかゆむら

[現在地名]南陽市赤湯

米沢盆地北東端にあり、東に大谷地おおやちの低湿地が広がる。「伊達天正日記」天正一五年(一五八七)三月一〇日条に「雪子に申候。赤湯よりいけかも二つ参り候」とあり、翌年正月三〇日条に「はんかた田鳥あか湯より参候」とある。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高六一一石余、免三ツ七分、家数四三(うち役家二〇、肝煎・小走二)、人数一九八、役木としてあげられるのは桑のみ。蒲生氏高目録帳では村柄は上。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣として侍衆横田利信がいる。寛永一五年(一六三八)検地帳(南陽市役所蔵)では屋敷持百姓が五一人で五五町余の耕地を保有し、ほかに屋敷を所持しない者の耕地が一一町七反余みられる。蒲生家旧臣と伝える石岡丹波は五畝の屋敷と耕地四町七反余を保有していた(文化元年「差出覚書」石岡文書)。同氏は慶長四年(一五九九)三月一二日、高畠たかはた(現東置賜郡高畠町)城代春日元忠から椚塚くぬぎづか村の開判形(同文書)を与えられ、五年間「かうや」扱いとして諸役を免除されている。また同年三月二六日、同じく春日氏より一〇〇石の肝煎免を許された(同文書)。翌五年三月一〇日には「真板柳村後家在家、志かま在家」の開判形(同文書)を与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報