貝津村(読み)かいつむら

日本歴史地名大系 「貝津村」の解説

貝津村
かいつむら

[現在地名]三井楽貝津郷かいつごう

浜之畔はまのくり村の南西方にあり、南西部は海に臨む。沖合嵯峨さが島が見え、東に桐木きりのき山がある。大永元年(一五二一)宇久盛定大宝だいほう(現玉之浦町)を追われた玉之浦納は貝津・嵯峨島へと逃れ、そこで果てるが、その妻の墓とされるものが貝津浜のひめ崎にある。江戸時代は福江藩領三井楽掛に属する。寛文四年(一六六四)の福江領高辻帳に貝津村とあり、高六三石余。元禄国絵図にも村名がみえ、新田畑改高は明暦元年(一六五五)の高一二四石余、享保六年(一七二一)の高二二石余、享和三年(一八〇三)・文化三年(一八〇六)の各四石余などで、天保四年(一八三三)当時の荒地は高三〇石余(天保五年福江領高辻郷村帳)

貝津村
かいづむら

[現在地名]諫早市貝津町・堂崎町どうざきまち馬渡町まわたりまち津久葉町つくばまち若葉町わかばちよう青葉台あおばだい

津水つみず村の南に位置し、東大ひがしおお川・西大川が流れ、大村湾に注ぐ。長崎路が通る。近世は諫早郷に属し、はじめ肥前佐賀藩親類同格の諫早家領であったが、元和七年(一六二一)に佐賀本藩に上知されたうち一村とされる。正保国絵図に「貝津村」とあり、高三〇九石余。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)でも村名が記され、元禄国絵図および天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録でも高三〇九石余。享和二年(一八〇二)菱屋平七は栄昌えいしよう宿から人家四、五〇軒ほどで茶屋のある「貝津村」に至っている(筑紫紀行)。諸大名らの通行に際しては駕籠立場や御間ノ水が用意された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android