豊浦村(読み)とようらむら

日本歴史地名大系 「豊浦村」の解説

豊浦村
とようらむら

[現在地名]東大阪市豊浦町東豊浦ひがしとようら町・箱殿はこどの町・しん町・鷹殿たかどの町・鳥居とりい

生駒山地西麓のかなり急な扇状地上にある。北は額田ぬかた村、東はくらがり峠で大和国に続き、西は恩智おんぢ川を隔てて松原まつばら村。中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠奈良街道が通る。「とよら村」ともよばれた(寛文一〇年覚「大阪府全志」所収)。字名に箱殿・髪切こうぎり・鳥居・宝蔵新家ほうぞうしんけとうげなどがあり、髪切は枝郷。古代河内郡豊浦郷(和名抄)の地。「続日本紀」和銅五年(七一二)正月条に「廃河内国高安烽、始置高見烽、及大倭国春日、以通平城也」とある。同三年に都が藤原京より平城京に遷されたのに対応して高安たかやす(現八尾市)より北にある高見に烽が移され、生駒の飛火ともいわれた。高見は暗峠北方の髪切山のことで、石積みが残るという(枚岡市史)

豊浦村
とゆらむら

[現在地名]明日香村大字豊浦とようら

飛鳥あすか村の西方、飛鳥川左岸に立地する。元興寺伽藍縁起並流記資財帳には「等由良とよら」「等由羅とよら」「止由良佐岐」(豊浦前)、元興寺塔露盤銘(推古天皇四年)には「等由良」と記す。「日本書紀」朱鳥元年(六八六)一二月一九日条に「小墾田豊浦」の寺名がみえる。「和名抄」長門国豊浦郡は刊本には「止与良」の訓注を付しており、当村もトユラまたはトヨラと称したものと思われる。慶長郷帳に「といら村」、元和郷帳には「とひら村」とある。「万葉集」には豊浦寺の尼の私房で逝回ゆきき岳を詠んだ歌がある。

豊浦村
とようらむら

昭和七年(一九三二)四月から同二二年六月までの虻田あぶた郡の村。村名改称により成立した村で、その理由は旧名弁辺べんべアイヌ語に漢字をあてたもので語呂が悪く、住民の希望により、水産が豊かで内浦湾に面していることから豊浦とした(北海道駅名の起源・北海道年鑑)。同時に字名改正も行われ、旧来の大字名を廃し、現在と同じ一七字を編成した(豊浦町史)。昭和八年に豊浦漁港の船入澗築設開始、同一一年竣工。昭和一〇年の職業別世帯数は農業五八五・水産業一二六・工業一六・商業一一二・交通業一三・公務自由業一六七・家事使用人一八、その他有業三二七・無職三(同一二年「北海道市町村行政区画」)

豊浦村
とようらむら

[現在地名]大和郡山市豊浦町

小南こみなみ村東方に位置する環濠集落。一に豊良に作る。元禄郷帳では「トヨラ」と注訓している。筒井順慶葬式目録に豊浦彦三郎の名がみえ、正和二年(一三一三)調査にかかる豊浦御庄検注帳(内閣文庫蔵、「大和志料」所収)が残る。

慶長郷帳にみえる村高は二一六石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報