豆田町(読み)まめだまち

日本歴史地名大系 「豆田町」の解説

豆田町
まめだまち

[現在地名]日田市豆田町

中城なかじよう村の東部、花月かげつ川左岸にあり、対岸は陣屋廻じんやまわり村。府内・日田往還が通る。くま町と併せ日田両町と称され、日田郡にとどまらず九州の経済の中心の一つであった。慶長六年(一六〇一)丸山まるやま城の築城に伴い成立した町で、初め丸山町と称した。この町は友田ともだ村の民家を移して形成されたが、元和二年(一六一六)石川忠総が入部、城を永山ながやま城、当町を豆田町と改めたという(「豊後国志」など)。「豊西記」では城下の町を豆田に移し永山町と称するとするので、豆田の地名はこれ以前よりあったのかもしれない。寛永一〇年(一六三三)石川氏の転封後は代官所の陣屋町として栄えた。寛永―寛文(一六二四―七三)の頃草野家・広瀬家などの有力商人が筑後や筑前地方から移住したとされる(広瀬家文書)。これ以降城下町・陣屋町としての形態が整い、天和二年―貞享三年(一六八二―八六)松平直矩が日田藩主として統治。貞享三年以降は幕府直轄地として郡代・代官の陣屋町として幕末に至る。

「豊後国志」に「中城之支」または夜開やけ郷中城村に属すとあるように、正保・元禄・天保の各郷帳には当町の記載はなく、枝郷扱いの場合が多かったものの、実際には隈町とともに独立した町であったといえる。町名は寛文四年の日田騒動の際の日田代官と熊本藩の往復書簡(松井家文書)に日田豆田町とみえるのが早い例で、延宝八年(一六八〇)代官所の「隈豆田両町」の地子免許の吟味では「豊後国志」と同趣旨の説明をし、その際に地子御免とされたと伝えるが今となっては証拠はないとしている(永山布政史料)。貞享四年の宗門改でも、代官所は豆田隈両町の大年寄小年寄中に宛てている(古後家文書)。元禄元年(一六八八)九月着任の代官三田次郎右衛門により地子が課せられることになったとされるが(豊後全史)、「永山布政史料」では同二年から豆田町・隈町の地子銀が始まると記され、この銀納請持は豆田町分は中城村とされたという。ただし同年両町の年寄中は代官所に対して年貢地になったのは当然至極とし、定免かつ銀納とすること、また中城村と別村とすることなどを求めている(同史料)。地子高六八石余、免六ツで、これは正徳四年(一七一四)の日田郡村々毛付高写(豊西説話)などでも同様であるが、延享二年(一七四五)には町屋敷に上・中・下の三等級をつけて地子の増徴が命じられ六ツ三分となっている(永山布政史料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「豆田町」の意味・わかりやすい解説

豆田町
まめだまち

大分県西部、日田(ひた)盆地中央、日田市の一地区。旧豆田町。花月(はなつき)川・庄手(しょうて)川間の地を占める。花月川対岸の月隈(つきくま)山にあった西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)永山(ながやま)布政所の陣屋町で、これを背景に、筑後(ちくご)川水運の便もあり、九州における商業、金融の一中心として栄えた。広瀬家・草野家住宅など古い町並み(重要伝統的建造物群保存地区)をよく保存している。

[兼子俊一]


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