藤原高藤墓(読み)ふじわらのたかふじのはか

日本歴史地名大系 「藤原高藤墓」の解説

藤原高藤墓
ふじわらのたかふじのはか

[現在地名]山科区勧修寺下ノ茶屋町

勧修寺の南西鍋岡なべおか山の山頂にある。小野おの墓ともよばれた。高藤は内舎人良門の二男で、貞観四年(八六二)右近将監となり、寛平七年(八九五)参議、九年中納言・正三位、昌泰三年(九〇〇)正月内大臣(公卿補任)、同年三月一二日死去。六三歳(日本紀略)。宇治郡大領宮道みやじ弥益の女列子を妻とし、その女胤子が宇多天皇女御となって醍醐天皇を産むが、その間の経緯は「今昔物語集」巻二二「高藤ノ内大臣ノ語」に詳しい。

高藤が一五、六歳の頃、「南山階やましなト云フ所なぎさノ山ノ程」に鷹狩に出てにわか雨にあい、雨宿りをした家で一三、四歳の美しい娘にめぐりあう。その後心にかかりながら六年ばかりを経、再び「阿弥陀ノ峰越ニ」訪れると、娘は、五、六歳の「我ガ形ニ似タル事、露許モ違」わぬ幼女の母になっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報