葦屋・葦屋津(読み)あしや・あしやのつ

日本歴史地名大系 「葦屋・葦屋津」の解説

葦屋・葦屋津
あしや・あしやのつ

葦屋は遠賀川の河口部、現在の芦屋町中心部にあたる。古代のおか水門を継承する葦屋津は遠賀川の河口湊で、国際貿易都市博多と畿内とを結ぶ航路の中継地に位置した。庄園制の発展により遠賀川流域に幾つもの権門庄園が設定されるようになると、葦屋津は川舟により流域庄園から集められた年貢を海船へと積替えて畿内や博多へと運び出す年貢積出港として発展し、やがて水上交通における要衝の地位を占めるに至った。保延二年(一一三六)九月日の明法博士連署勘文案(壬生家文書/平安遺文五)の奥書に「筑前国葦屋津」とみえ、これ以前に若江兼次が当地滝口の武士兵藤氏によって荷物を押取られている。葦屋津を中核とした一帯は院政期にはすでに湊町としての様相を呈していたことが知られており、応保二年(一一六二)頃完成したとされる釈蓮禅の「本朝無題詩」には葦屋津の様子が「津ヘ向ヒ上下スル客舟集ル、岸分レ東南ニ民戸重ル」(原漢文)と詠まれている。

寛喜三年(一二三一)四月五日の官宣旨(宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文六)によれば、「葦屋津・新宮浜」に打寄せられる難破船の積荷はすべて宗像末社の修理費用に充てられるのが往昔以来の例であったが、近年になって往阿弥陀仏が海上風波の難を避けるために「孤島」を築き、往還する船を助けるようになったため、修理費用が無足になってしまったと宗像社が訴えている。当時の響灘海域における海上交通が活発であったのと同時に交通の難所でもあったことがうかがえる。ところで葦屋津には日本の船ばかりでなく、時に中国や朝鮮などの大陸からの船も直接来航していたものとみられる。建長元年(一二四九)に博多から入宋し、同六年に帰国の途に着いた無本覚心は「鎮西葦屋津」に直接帰着し、そこから日本の船に乗換えて紀伊に向かっている(紀州由良鷲峯山法灯円明国師之縁起)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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