繁昌村(読み)はんじようむら

日本歴史地名大系 「繁昌村」の解説

繁昌村
はんじようむら

[現在地名]加西市繁昌町

桑原田くわはらだ村の北、万願寺まんがんじ川左岸に位置する。同川は南流する普光寺ふこうじ川を村の西端で合する。東は加東かとう西にし(現小野市)。古くから丹波方面・高砂方面へ通ずる交通の要衝であった。「祇園社家記録」応安四年(一三七一)一〇月八日条にみえる「ハムシヤウ野」は当地付近のこととみられる。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)半丁はんちよう村八六石余とみえる。慶長五年(一六〇〇)網引あびき村と竹原たけはら(田原)村との水論の際の中なほり定(網引町有文書)に調停人として半丁村庄屋太左衛門とあり、慶長国絵図には半町、元和四年(一六一八)の土免状(繁昌町有文書)にも半丁村とあるが、同五年以降の土免状(同文書)には繁昌村と記されている。

繁昌村
はんじようむら

[現在地名]武雄市朝日町あさひまち中野なかの字繁昌

繁昌川の北、戸坂とさか峠の南に位置する。川古かわご村と接する。

正保絵図に村名がみえる。明治初年の文書(武雄鍋島家文書)には「半上」の字を使う。

この地域は平安時代の後期には長島ながしま庄で、蓮華王れんげおう院領。鎌倉時代は橘薩摩氏の領有であった。室町時代に塚崎つかざき庄となり、塚崎後藤氏の所領となったが、建徳三年(一三七二)北朝方の今川仲秋、少弐頼澄がかしわ岳と烏帽子えぼし岳に陣をしき、塚崎城に拠った南朝方の塚崎後藤氏、肥後の菊池氏を攻撃した時、最も激しい戦いが展開されたのはこの村であったという(武雄史)

繁昌村
はんじようむら

[現在地名]北浦村繁昌

東は吉川よしかわ村、西は中根なかね村。中世は小高氏の支配領で(新編常陸国誌)、戦国末期に佐竹氏領、同氏の移封後は仁賀保氏領・皆川氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)府中(石岡)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)。寛政一一年(一七九九)の「石岡藩領内窮民御救のため馬飼育目論見書」(鬼沢家文書)には「繁昌村高九百九拾石余、前々は五拾疋余御座候所、当時は弐拾九疋有之候得共、皆老馬弱馬ニ御座候、右ニ順外村々も至て減少ニ御座候」と記される。弘化元年(一八四四)中根村天神谷用水池並溜池御普請入用割帳(吉川区有文書)によると、当村は九ヵ村総人足一千七三七人のうち七一〇人を負担している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android