紙屋・紙屋郷(読み)かみや・かみやごう

日本歴史地名大系 「紙屋・紙屋郷」の解説

紙屋・紙屋郷
かみや・かみやごう

紙屋の南東城原じようばるにあった紙屋城を中心とする一帯の中世の呼称。戦国末期から近世初頭、および近世前期には外城として紙屋が立てられた。

応永三一年(一四二四)島津久豊は伊東祐安攻撃のため油之あぶらの(現日南市)へ発向した。鹿児島大学図書館本「山田聖栄自記」には「真幸、三俣両人手ハすき、ひた木とり合、ゆの木崎・紙屋も御用立へき之由、前より被申候ヘハ」とあり、島津方の真幸まさき三俣みまた軍勢先陣となって須木すき(現須木村)方面から当地を通っていったらしい。この時期当地は伊東氏の支配下にあったと思われる。文明一六年(一四八四)飫肥おびでの伊作久逸と新納忠続の合戦の際、伊作氏救援のため発向した伊東方の軍勢のなかに紙屋の人数も加わっており、伊東祐邑の手に属していた(日向記)。明応四年(一四九五)伊東方は紙屋口などから島津氏の支配領域に侵入し、和田氏・高木氏の居城を攻撃した(「閑暇吟」旧記雑録など)。天文一一年(一五四二)八月二〇日、伊東・北原両氏の軍が三俣たか(現高城町)で北郷忠相らと戦い、北郷方は伊東・北原軍勢七〇〇余人を討取り、同日鳥越とりごえ(現高崎町か)が落ちた。その後紙屋の米良紀伊守の意見で鳥越城に替えて野々美谷ののみたに(現都城市)を北原氏の前線基地として野伏を配備した(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書)。この頃までに伊東方の要害として紙屋城が築かれていたのであろう。永禄一一年(一五六八)頃の伊東方諸将の配置を示す「分国中城主揃事」には紙屋城主として福永丹波守が記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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