米満村
よなみちむら
[現在地名]長南町米満
今泉村の南東に位置し、一宮川支流の三途川が流れる。茂原に至る道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三八五石。寛文四年(一六六四)の松平重利領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野皆川藩領。元禄郷帳では高三九〇石余。享保二〇年(一七三五)当時高一七七石余が旗本飯田領で、米九〇俵(大俵)余、畑方金一四両二分・鐚六九三文など(山崎家文書)。
米満村
よねみつむら
[現在地名]東広島市八本松町米満
黒瀬川沿いにあり、北は正力村、南は寺家村に接し、西の飯田村にかけては低丘陵が続く。大永三年(一五二三)一〇月二〇日付毛利元就宛行状(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)によると「東西条之内、黒瀬右京亮給ともひろ名・もりとう名并よなミつ いやすミ」が粟屋元秀に宛行われており、この「よなミつ」は当地と考えられる。
村高は元和五年(一六一九)一五〇・〇六八石(安芸国知行帳)、明暦四年(一六五八)の地詰で二一一・三七五石とされた(広島県川上村史)。文久二年(一八六二)当時の給知は約二〇七石、給人五人。残りが明知。畝数は明暦四年に三〇町余(うち田は二五町余)で、うち古荒川成は二町余であったが、文政二年(一八一九)には一町余に減少(広島県川上村史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報