笠間城跡(読み)かさまじようあと

日本歴史地名大系 「笠間城跡」の解説

笠間城跡
かさまじようあと

[現在地名]笠間市笠間・日草場

佐白さしろ山中にある。鎌倉から江戸時代に続く山城で、かつら城ともよばれる。「笠間城記」によれば、元久二年(一二〇五)佐白山正福しようふく寺百坊は徳蔵とくぞう寺三百坊(現西茨城郡七会村)との争いで苦戦となり、援軍下野宇都宮頼綱に求めた。頼綱の弟塩谷朝業の次子時朝が派遣され、時朝軍は初め徳蔵寺を攻め敗走させたのち正福寺も滅ぼし、笠間の地を領有した。時朝はまず土塁と堀をめぐらしたふもと(のちの城下町の中央にあり、現在も鷹匠町に土塁が残る)を築き、のち承久―嘉禎元年(一二一九―三五)に佐白山頂に城を築いたと伝える。時朝は笠間氏を名乗り、以後一八代が城主となった。

天正一八年(一五九〇)笠間綱家は宇都宮国綱によって滅ぼされ、宇都宮氏は家臣玉生忠勝を派遣して城を守らせた。忠勝は文禄三年(一五九四)から笠間城下の建設に取りかかり、翌年には登城路を改修した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報