笠原牧・笠原庄(読み)かさはらのまき・かさはらのしよう

日本歴史地名大系 「笠原牧・笠原庄」の解説

笠原牧・笠原庄
かさはらのまき・かさはらのしよう

現在の小笠郡域から袋井市にかけて広がっていた。初め笠原牧、のち笠原庄となる。承平元年(九三一)二月二日に藤原忠平は笠原牧の書類を受取り(貞信公記)、万寿四年(一〇二七)には「遠江笠原牧」が忠平の四代のちの藤原頼通の所領となっており、牧使殺害の犯人逮捕が問題となっている(「小右記」同年二月一〇日条など)。忠平の流れに当牧の所職が伝領されたと推測される。長徳三年(九九七)昌子内親王(朱雀天皇の皇女)が藤原実資に「笠原牧」の馬を与えており(「小右記」同年一〇月二八日条)国名は明記されないが、遠江国の可能性がある。寛治三年(一〇八九)一一月一二日の散位藤原致継寄進状案(賀茂別雷神社文書)によると、当牧は比木ひき(現浜岡町)の西に隣接していた。嘉承元年(一一〇六)には笠原牧は源俊房の家領となっており、預職を解任された藤原保隆が還任を求めて実力行使に至り、逮捕されている(「永昌記」同年九月九日条)。頼通の姉妹が俊房の父に嫁いでいる関係で、俊房に伝領されたのであろう。同じ事件を伝える「中右記」同月一二日条は「笠原庄」と記し、保隆を庄司と表現しており、この頃に庄園化したことがわかる。なお嘉応元年(一一六九)法然の師である皇円は死に際し、当庄のさくらヶ池(現浜岡町)で蛇身となることを願い、庄園の領家に放券を請うたと伝えられ、「法然上人伝記」巻二上はその領家を花山院忠雅とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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