竹本綾之助(読み)たけもとあやのすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹本綾之助」の意味・わかりやすい解説

竹本綾之助
たけもとあやのすけ
(1875―1942)

女義太夫(おんなぎだゆう)の太夫。大阪生まれ。本名石井園(その)。10歳で東京・文楽(ぶんらく)座に玉之助(たまのすけ)の名で出演。稚児髷(ちごまげ)に振袖(ふりそで)姿の愛くるしい容姿と達者な語り口で満都の人気を集めた。初世竹本綾瀬太夫に師事すると同時に綾之助と改名、女義太夫全盛時代のスターであった。1898年(明治31)貿易商の石井健太と結婚、いったん引退したが、1908年(明治41)にカムバック。10年女義太夫再検討を図って藤菱(ふじびし)会を組織したが、27年(昭和2)秋をもって演奏活動を中止した。

[土岐迪子]

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世界大百科事典(旧版)内の竹本綾之助の言及

【女義太夫】より

…明治の東京では素(す)浄瑠璃の形式で大流行するが,その基礎を作ったのは,82年に名古屋から再度上京した竹本京枝と,大阪で盛名をはせていた竹本東玉の東上(1885)である。やがて竹本綾之助や竹本住之助らの出現で女義太夫の隆盛を迎え,青壮年層を魅了し,客席からひいきの女義太夫に〈どうする,どうする〉と口拍子をかける熱狂的ファン・グループの〈どうする連〉を輩出させる。そのため1900年には風紀紊乱で社会問題化するが,豊竹呂昇(ろしよう)(1924引退)の活躍を最後に衰退した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」