立野城跡(読み)たちのじようあと

日本歴史地名大系 「立野城跡」の解説

立野城跡
たちのじようあと

[現在地名]松阪市立野町・桂瀬町・丹生寺町

立野・丹生寺にゆうでら桂瀬かつらせの旧三村境が交わる標高一三八メートルの険しい丘陵の頂部にあり、大河内おかわち城は坂内さかない川を挟んで指呼の間にある。城跡は東西七〇メートル、南北一三〇メートルの広がりをもち、幅一二メートルの堀切を挟んで北と南の二つの台状地から構成されている。北のものは基底面で二五×四〇メートル、上面で一〇×二五メートル、南のものは基底面で二〇×四〇メートル、上面で八×三〇メートル、ともに高さは六メートルの規模をもつ。

立野城跡
たつのじようあと

[現在地名]三郷町大字立野

信貴しぎ山から東南に延びる尾根上にあったが破壊されて住宅地となり、昭和四九年(一九七四)と五五年に発掘調査された。

立野城は至徳元年(一三八四)の長川流鏑馬日記(天理図書館保井文庫)にもみえる興福寺大乗院方国民立野氏の居城信貴山寺旧参道を挟んで四つの群からなり、いずれも一、二郭を土塁と空堀で囲む。室町時代前期に築造され、永禄年間(一五五八―七〇)には松永久秀信貴山しぎさん城の出城としてその城の東南口を固める機能をもっていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報