稲木村(読み)いなきむら

日本歴史地名大系 「稲木村」の解説

稲木村
いなきむら

[現在地名]東広島市高屋たかや町稲木

鷹巣たかのす(五三四メートル)の東南に位置する。同山から流れる小河川が、浅くて複雑な谷と低丘陵を形成。南は桧山ひやま村に接する。地名は、応永三二年(一四二五)八月一八日付の周賀契状(「国郡志下調書出帳」所収)に「高屋保内稲木長福寺」とみえる。

慶長六年(一六〇一)検地で打出された四一二石が近世を通じて変わらなかったが、うち約一七石・約二町七反が古荒川成などで、毛付高は三九五石余であった(国郡志下調書出帳)。寛政四年(一七九二)当時、明知方は約一九〇石で、残りは三人の給知(同年「指出帳」天野貢氏蔵)。麦作地は約二町(すべて田地)、畠では木綿などがつくられ、楮約一七貫、栲三〇本、漆四〇本などがあった(同帳)

稲木村
いなぎむら

[現在地名]松阪市稲木町

はらい川の左岸にあり、西は早馬瀬はやまぜ村、南は伊勢場いせば村に接し、北は高木たかき村へ続く。村域内を伊勢参宮街道が通る。

「神宮雑例集」の天喜五年(一〇五七)九月条に「稲木川原」がみえる。一一世紀後半には東寺領川合かわい(現多気郡)の田堵稲木大夫の活躍がある。稲木大夫とは内宮権禰宜荒木田延能のことで、その子延明は稲木小大夫と称した。当地に住したといわれる。治暦四年(一〇六八)二月二八日伊勢国大国庄司解案(東寺百合文書)に稲木大夫の名がみえる。応徳二年(一〇八五)六月九日の太神宮検非違使新家俊晴解(同文書)には、稲木大夫延能の川合庄内における行動が記されている。

稲木村
いなぎむら

[現在地名]善通寺市稲木町・上吉田町かみよしだちよう七丁目

金倉かなくら川中流域西岸、上吉田村・下吉田村の北に位置する。多度たど郡に属し、寛永国絵図、寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳ともに村名がみえず、京極氏の西讃入部後あまり時を経ない段階で、国絵図に載る吉田郷(高覚帳の吉田村)から上吉田村・下吉田村と当村が分立したのであろう。こういう経緯から三村は三吉田村と称されることがあり、相互の関係も密接であった。

稲木村
いなぎむら

[現在地名]新城市稲木

川田かわだ村の東北、野田のだ村の西北にあたり、本宮ほんぐう山の東南斜面と山麓部を占める。村域内を野田川が流れる。慶長九年(一六〇四)検地帳では田二三町二反余・二六八石余、畑・屋敷五町八反余・六五石余の計三三四石余である。寛永二年(一六二五)幕府領から二千石の旗本島田成重の所領となった。延宝三年(一六七五)に直好が相続した際に叔父の直親に五〇〇石を分けたことにより島田直親領となり、さらに正徳四年(一七一四)村の一部一〇六石余は旗本中根正包の所領となって幕末に至る。その他当初から新城藩領も存在し複雑な相給状態を示している。

村域北西にある吉水よしみずには縄文中期の土器・石器を含む吉水遺跡がある。伝説では村内に依田長者がおり、寛治七年(一〇九三)千秋範勝に退転させられたといい、長者屋敷や粕塚とよばれる経塚があった。

稲木村
いなぎむら

[現在地名]常陸太田市稲木町

源氏げんじ川の右岸に位置し、東は太田村・磯部いそべ村。足利持氏が石河左近将監幹国に与えた応永二四年(一四一七)七月二〇日の感状(石川氏文書)に「去二月七日、同四月廿四日、於常州稲木城、致戦功之条、尤以神妙向後弥可抽忠節之状」と稲木城のことが記され、明応年間(一四九二―一五〇一)の「当乱相違地」(秋田藩採集文書)にも「稲木」の名がみえる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「稲木村」とある。「新編常陸国誌」によると文化二年(一八〇五)の戸数七三、天保一三年(一八四二)の検地では田畠五五町余、分米五一四石余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報