私学校跡(読み)しがつこうあと

日本歴史地名大系 「私学校跡」の解説

私学校跡
しがつこうあと

[現在地名]鹿児島市城山町など

明治七年(一八七四)六月以降、前年に征韓論に敗れて下野した西郷隆盛に従って鹿児島に帰ってきた者を指導教育する目的で設立された学校の総称。現在の国立南九州中央病院の敷地にあたる鹿児島城の御厩おうまや跡に本校が置かれ、国道一〇号に沿った石垣(私学校跡石塀として県指定史跡)には西南戦争の銃弾痕が多数見られる。石垣のほぼ中央に門があり、西郷南洲翁設立私学校跡の石碑が建てられている。私学校には御厩跡の近衛このえ学校(銃隊学校)砲兵ほうへい学校(砲隊学校)吉野よしの教導団きようどうだん学校(吉野開墾社)城下高見馬場たかみばば高麗こうらい町・新屋敷しんやしき荒田あらた西田にしだ常磐ときわ草牟田そうむた上之馬場うえのばば後迫うしろさこ・吉野・じようだにの郷中を単位とする学校、諸郷の郷校を夜間利用する学校などがある。御厩跡の二校を本校とよび、城下および諸郷の学校を分校とよぶ。

後迫分校に一時所属した玉利喜造の回顧録(「学舎之研究」第一輯)によれば、昼間の公学校に対して夜学校を私学校と称し、本校・分校ともに自ら私学校と称してはいない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報