福昌寺跡(読み)ふくしようじあと

日本歴史地名大系 「福昌寺跡」の解説

福昌寺跡
ふくしようじあと

[現在地名]鹿児島市池之上町

玉竜ぎよくりゆう山の麓に所在した曹洞宗寺院。現在の鹿児島市立玉龍高校の敷地にあたる。玉竜山と号し、本尊釈迦如来。能登総持寺末。島津氏の菩提寺で、鹿児島三ヵ寺の一(上井覚兼日記)。県指定史跡。島津元久は禅宗に帰依すること厚く、応永元年(一三九四)長谷場久純の住居跡に当寺を創建し、石屋真梁開山とした(「島津国史」「西藩野史」など)。薩隅日三州の僧録所・勅願所および島津氏歴代の菩提所で、島津氏代々の保護を受け鹿児島藩最大の寺院として繁栄した。寺中には一千五〇〇人余の僧侶が居住していたともいう(三国名勝図会)。開山の石屋真梁は伊集院忠国の一一男として貞和元年(一三四五)出生。六歳で伊集いじゆう広済こうさい(現伊集院町)に入り、延文年間(一三五六―六一)京都南禅寺の蒙山を師とした。その後丹波国永沢ようたく(現兵庫県三田市)の通幻に学び、妙円みようえん(現伊集院町)の開山であったほか、能登総持寺の二〇世貫主にもなった。応永三〇年没。なお元久の嫡男は石屋の弟子となり、当寺三世の仲翁守邦となっている(旧記雑録)

応永二年一月一一日、元久は重代相伝の所領である長谷庭はせば村門前の水田を寄進し(「島津元久寄進状」旧記雑録)、同月竹木伐採・鷹狩などや門前の川(稲荷川か)での漁を禁じている(「島津元久禁制」同書)。翌三年七月二六日には当寺造営のため、元久知行分の山での資材調達が認められ(「島津元久書下」同書)、八月六日には当寺普請にあたり皇徳こうとく寺領の人夫が特例として使用されている(「皇徳寺霊用書状」同書)。同年一二月三日に寺域の四至が定められ(「島津元久定書」同書)、同月一一日に坂本さかもとのうち池上の田畠が寄進された(「島津元久寄進状」同書)。翌四年四月九日、元久は先祖忠久以来薩隅日三ヵ国に一寺も建立していないので当寺を建立することとし、開山に石屋を招きその弟子に相続させることなどを定め、さらに在京・在国料として廻船人に預けている金・料足・唐物・打物(武具)などを元久の死後当寺に与えることを定めている(「島津元久定文」同書)。同九年九月一一日、元久は当寺に対し自分が死んだならば、鹿児島城(清水城か)の蔵に入置いた料足・銀・唐物・武具などを蔵を預けた北原氏純・福崎久重より受取るように定めている(「島津元久証状」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報