福山城跡(読み)ふくやまじようあと

日本歴史地名大系 「福山城跡」の解説

福山城跡
ふくやまじようあと

[現在地名]松前郡松前町字松城

松前城・松前福山城とも称する。現松前町の中心部、大松前おおまつまえ川と小松前こまつまえ川に挟まれた福山台地上にある平山城。大部分の時期を松前藩松前氏の政庁として使用され、一時期幕府の松前奉行所、最後は館藩の政庁が置かれた。松前氏城跡福山城跡として国の史跡に指定されている。

〔福山館〕

松前藩初代松前慶広は慶長五年(一六〇〇)海に面した福山の台地で新城築城に着手、六年後の同一一年に完成した。「福山秘府」や「松前年々記」には福山城とあるが、正式には陣屋または館である。創建当初の規模はわからないが、元和五年(一六一九)には大館おおだてにあった寺街・大館街が城下へ移され(松前家記)、体裁を整えていったとみられる。寛永六年(一六二九)には領内の金掘を動員して石垣を築いたが(市立函館図書館本「福山秘府」)、同一四年三月には城中から失火し、硝薬に火が移り建物の多くを焼失、藩主公広も負傷するという被害であったという。「累代ノ宝器文書多ク亡フ」火災で(松前家記)、福山城の遺構確認調査でもこの火災に起因するとみられる焼土・灰層が発見されている。灰層中には一七世紀代の遺物と自然石を利用した建物礎石が確認されている。同一六年六月修造した時には上ノ国産のアスナロ檜を用いたといわれる(和田本「福山秘府」)

寛文九年(一六六九)に始まるシャクシャイン蜂起の際、アイヌの攻撃に対し急遽備えを固めた。「狄蜂起集書」には当時の福山館の概要が記されている。

<資料は省略されています>

この記事によれば、東は川原かわら町の沢(大松前川)湯殿沢ゆどのさわ(小松前川)に開析された南面する舌状の台地を利用し、本丸の東に二ノ丸、北側に北ノ丸を配し、要所に土手と堀を設け、南北は板塀、東西には木柵を設け、物見櫓を一ヵ所配したものであった。その後部分的な増修築が何度かされたらしく、いくつかの記録にみえている。元禄六年(一六九三)八月には二ノ丸隠館衛所より出火、同一〇年城中に仏殿を造立した。同一三年には城中で失火があった。宝永二年(一七〇五)には滞間を修造している(福山秘府)。宝暦一二年(一七六二)南東角の遠見櫓地普請が始まった(旧紀抄録)。明和二年(一七六五)八月東の角櫓の再建が竣工(福山秘府)。天明八年(一七八八)一二月の大風では西の角櫓が吹飛んだ(福山旧事記)。寛政八年(一七九六)東の遠見櫓を築造している(松前家記)。全体の規模は享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」にやや詳しく紹介されており、東西九三間・南北一二六間四尺の範囲で、櫓を南東の角に配し、ほかに物見が西と北西の角の二ヵ所、門が三ヵ所あったことがわかる。

福山城跡
ふくやまじようあと

[現在地名]福山市丸之内一―二丁目

元和五年(一六一九)水野勝成が備後国一〇万石に封ぜられ、一国一城の制に従い新しく城地を定め、縄張りを行って築城。戦国以後の築城史上最後の築城となったもので、従来の長をとり、最も完成した城郭建築とされる。正式名称は鉄覆山朱雀院久松てつおうざんすざくいんひさまつ城。鉄覆山は天守閣の背面を鉄板で覆ったので付けたともいわれるが、「敵覆山」で敵を覆滅する意を込めたとされる。朱雀は四神の一つで南方をつかさどるもの、城が備後の南に位置するとともに南面しているので付けたといわれる。久松は松寿長久の意を込めて名付けられた。また芦田あしだ川の北にそびえるため葦陽いよう城の雅名で詩文などにみられる。芦田川が福山湾を埋めたデルタの基部に存在する孤丘常興寺じようこうじ山を改造して平山城の形式をとり、前面に広がる沖積平野の上に城下町を形成した。

築城の土木工事は元和六年末にはほぼ完成し、いよいよ建築にかかる状態で同年一二月に普請大成の報告が幕府に出され、将軍秀忠から「就其地普請出来、令満息、使者並銀子百枚、小袖到来、喜覚候」という黒印状(「徳川実紀」所引)がきている。

福山城跡
ふくやまじようあと

[現在地名]山手村西郡、清音村三因

高梁たかはし川の東岸に近く、北に旧山陽道の走る総社平野を、南に瀬戸内海を一望できる福山山頂にあった山城。標高三〇二・四メートル。国指定史跡。山頂部に北から南に向けて一の壇―五の壇と郭が続く。全体で約六〇×三三〇メートル。一の壇の北西辺に沿って幅約四メートルの空堀が約三〇メートル続き、その外側に幅一メートル強の土塁を付設している。二の壇が主郭で、南北約八〇メートル・東西約五〇メートル。一の壇と接続するほぼ中央に門跡とよばれる石組基壇があり、またこの郭の北西角に近い位置に直径一・七メートルの円形の城井戸がある。南端の五の壇の北辺肩部には、二列一対の石列がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報