研屋町(読み)とぎやちよう

日本歴史地名大系 「研屋町」の解説

研屋町
とぎやちよう

[現在地名]中区たて町・紙屋かみや町一丁目・本通ほんどおり

立町の西側の水道沿いの縦町で、南は横町の播磨屋はりまや町・革屋かわや町に接し、一本西側の筋を西研屋にしとぎや町と称した。これに対し水道沿いの筋は東研屋町ともいわれた。城の真鍋まなべ門筋にあたり、この東研屋町筋の南を研屋町筋と称した。城下中通組に属した。

毛利氏の広島開府の時、紀伊国より一党を引連れて来住した牢人湯川播磨守宗有らが、当時干潟であった播磨屋町・研屋町・紙屋町・立町辺りを埋築して町割を行い、この功績により宗有は研屋町に一〇〇間の屋敷地を与えられ、一党とともに居住、刀剣の研磨を業とし、研屋町と称するようになったと伝える(知新集)

研屋町
とぎやまち

[現在地名]倉吉市研屋町

江戸期の町人町。刀剣・刃物の研師が多く住んでいたのが町名由来という。西の下新しもしん町から東に延びる通りの両側町で、南はうお町。東の南半分は上横かみよこ町、北半分は下横町に接する。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に「ときや町」とみえ、竈数は下新町分を含み三五。同絵図によると魚町との間をたま川が東流し、当町南東角で北折して上横町・下横町の両町西境を北流する。

研屋町
とぎやちよう

[現在地名]静岡市研屋町

駿府城下の縦筋(縦町)第三行北端の両側町。南は横筋(横町)第八行の通りを境に両替りようがえ町一丁目に続き、東は上魚かみさかな町。町の西側、横筋第九行の通りの北に塩谷桃庵屋敷と曹洞宗顕光けんこう院がある(以上、町方絵図)。町名は慶長一四年(一六〇九)徳川家康の供として山城伏見から移住した研師にちなむという(駿河記)。「駿府広益」に「先年より御城御道具掛相勤候ニ付、諸役相勤不申候、但伝馬町人足ハ出シ候」とある。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家一・本家三四・借家三八。元禄五年(一六九二)の町数等覚帳(同文書)によると、家数三五・人数二七四(うち髪結一)、ほかに禅宗顕光院がある。

研屋町
とんやまち

[現在地名]掛川市掛川 研屋町

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道の南裏通りの両側町。西は南西郷みなみさいごう村、北は西にし町、東は紺屋こうや町、南は総構えの堀を隔てて南西郷村に接する。研師を集住させたのが町名の由来という。正保城絵図では町屋としてみえ、享保(一七一六―三六)頃の掛川城及城下之図(静嘉堂文庫蔵)に研屋町と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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