矢橋湊(読み)やばせみなと

日本歴史地名大系 「矢橋湊」の解説

矢橋湊
やばせみなと

[現在地名]草津市矢橋町

琵琶湖の南湖東岸に位置。「万葉集」巻七に「淡海のや矢橋の小竹を矢着かずてまことありえめや恋しきものを」の歌がある。矢倉やぐら村で東海道と分岐する矢橋街道が通り、草津宿と直結していた。山田やまだ志那しなとともに古くから有力な湊であったが、山田・志那とは異なり、対岸の坂本のほか、大津との関係が強かったようで、東海道大津―草津間の短捷路としての機能が大きかった。元亀二年(一五七一)の比叡山焼打ちを境にして坂本が勢力を失うとともに、これと深いかかわりをもっていた山田・志那は湊としての機能を縮小していったが、矢橋湊は東海道の交通量の増加、草津宿の発展とともに、一層重要性を増大していった。江戸時代「矢橋の帰帆」として近江八景の一つに数えられ、多くの絵画にも描かれるなど、当時の繁栄ぶりがうかがえる。

〔中世〕

「今昔物語集」巻一七には「箭橋ノ津ニ海人多ク有テ、魚ヲ捕テ商フ」とあり、一二世紀頃には漁労・商売の場として発展していたと推測される。同書巻二八には「三津ノ辺ニ白々ラト明ル程ニ行タレバ、船ハ兼テヨリ儲ケタリケレバ乗テ行ケルニ、矢馳ニ渡ル程、一時計ノ渡ナレバ、巳時許コソ津ニ渡リ着タリケル」とあり、坂本と結ばれていたことが知られる。文永五年(一二六八)八月に山田・矢橋の間で渡船の権利をめぐる渡相論が起こり、大津生得神人がこれに干渉して刃傷沙汰に及ぶ事件があった(華頂要略)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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