真幸院(読み)まさきいん

日本歴史地名大系 「真幸院」の解説

真幸院
まさきいん

現えびの市と小林市・西諸県にしもろかた郡にまたがる広域を占める。天承二年(一一三二)七月二一日の僧経覚解(近衛家本知信記天承二年巻裏文書)に「於牛屎真幸両郡者、為彼等押領畢」とみえる。牛屎うしくそ郡は西隣の薩摩国牛屎院(現鹿児島県大口市)のことで、真幸院とともに在地の輩に押領されたとして、摂関家の政所の裁許が重ねて求められている。当時真幸院は摂関家領であったものか。天養年間(一一四四―四五)以降といえる断簡の肥後国司解写(高野山文書)では、肥後久万くま(球磨郡)の住人貞倫・重平兄弟らが同郡住人守高(平河師高)を城から追って雑物・人馬を押取り、所領田畠を掠領した際、その与力人として「日向国真幸院住人」字小郡司貞重・波多利三郎別当正晴・入田太郎貞明・和良比草次末平・草藤次貞守の名があげられている。

鎌倉期に入って、建久図田帳には島津庄寄郡のうちに諸県郡の真幸院三二〇町がみえ、地頭島津忠久。応永二八年(一四二一)二月二七日の建久図田帳追記にも諸県郡内の真幸院は三二〇町とあり、公式な田数は同じである。ただし島津家文書のものとは別系統の写である建久図田帳(長谷場文書)では、真幸院は四七八町七反一〇歩となっている。建久九年(一一九八)二月二二日、忠久は鎌倉幕府から島津庄内郡司・弁済使等の名田七ヵ所を知行するよう命じられており、このなかに真幸院郡司名田が含まれていた(「関東御教書案」島津家文書)。正嘉二年(一二五八)八月には清原国宣が真幸院沙汰人職に任命されている(「大府宣案」続左丞抄)。文保二年(一三一八)六月五日の日向在国司所職注文(土持文書)によれば、真幸院国用一二石と四年に一度の寺社勘料(検注を行わない代りに徴収した税)と引田五町六反からの収入などが在国司の得分であった。鎌倉幕府滅亡直後の元弘三年(一三三三)七月、真幸院東郷鎮守、三宮高牟礼たかむれ六所権現大宮司草部行房は社領薗二ヵ所と二季大般若料田三杖の返付を申請した。この行房の申状土代(高牟礼文書)には社領の免薗を耕作する百姓らが「地頭御代官」に召使われたこと、「是等次第、且郡司所往古御文書明鏡也」などとみえ、当地に関する往古の文書は郡司が相伝していたことがわかる。

建武三年(一三三六)一月一〇日、足利尊氏方に属する肥後国球磨くま郡人吉庄地頭の相良定頼、同庄一分地頭税所宗円らは国境を越えて南隣の日向国真幸院に進出して反武家方の肝付兼重与党の城を攻撃、飯尾五郎兵衛入道を生捕りにした(建武五年八月「相良定頼申状案」・康永四年一一月「税所宗円申状案」相良家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報