相賀庄(読み)おうがのしよう

日本歴史地名大系 「相賀庄」の解説

相賀庄
おうがのしよう

現橋本市の西半分をほぼ荘域とし、中央を東西に紀ノ川が流れる。長承二年(一一三三)一一月一一日の相賀庄四至堺注文案(根来要書)に「東限八幡宮寺領、但本公験妻谷 南限高峯并丹生河 西限金剛峯寺領山田華坪西限陌并伊佐谷柳多和道興寺地 北限横峯并河内国南堺」とあり、東は石清水いわしみず八幡宮寺領隅田すだ庄、西は高野山領官省符かんしようふ庄とそれぞれ境を接し、北は河内国南境、南は紀ノ川南の山地部まで広がる荘園であった。

荘名は長承元年一二月九日の鳥羽上皇院宣案(同書)に「密厳院庄一ケ処相賀」とみえるのが早い。この時、鳥羽院は当庄を高野山の僧覚鑁の住房密厳院の所領とするよう命じている。長寛二年(一一六四)七月四日の太政官牒案(同書)には、密厳院領相賀庄は長承二年一一月に下された官符により「免除万雑事、雖天下一同公役・国内平均所課、永停止之、偏可為御願寺領之由、所被宣下也」とあり、この時、正式に不輸・不入の荘園として認められている。

長承元年一二月日付の覚鑁下文案(同書)によればもと陸奥守女子藤原氏の所領で、在地領主坂上豊澄が現地の実権を握っていた。覚鑁はこの二人から当地を寄進され、鳥羽院庁の後援で密厳院領としたが、同年、豊澄を子々孫々に至るまでという約束で下司に補任、豊澄の協力で当庄の経営を開始している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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