益田庄(読み)ますだのしよう

日本歴史地名大系 「益田庄」の解説

益田庄
ますだのしよう

現益田市東半部から現那賀郡三隅みすみ町・美濃郡美都みと町、現浜田市西部に及ぶ地域に所在した、広大な領域を誇る摂関家領庄園。治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)に、藤原忠通の女で崇徳天皇の皇后であった皇嘉門院が、二位中将兼房(藤原兼実の弟)に譲渡した所領の一つとして「いわみ ますた」がみえる。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)には藤原(益田)兼栄の所領の一つとして、翌二年六月日の源義経下文案(同文書)には兼栄の子兼高の所領の一つとして益田庄がみえる。建仁三年(一二〇三)一二月日の益田兼季申状案(同文書)によると、兼季の相伝所領の一つである益田庄は「益田郷 納田郷 井村 弥富名 已上肆箇所」からなっている。これに対し、貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文によると、益田庄(一四八丁八反小之内)は、本郷(九一丁七反六〇卜)納田なつた(二三丁五反六〇卜)井村いのむら(八丁一反)弥富やとみ(一六丁五反)乙吉おとよし(九丁)からなっており、益田氏は益田庄を構成する五つの単位所領のうちの四つを領有していたことになる。乙吉は乙吉郷・乙吉保・乙吉別符などともいい、益田庄の内とはいえ益田氏の一族乙吉氏が独自の支配を行っていて、そうした状況は益田庄の成立期以前までさかのぼると考えられる。

益田庄
ますだのしよう

益田庄は、長和二年(一〇一三)左衛門尉平致経が先祖相伝の所領を宇治殿(藤原頼通)に寄進したことにより成立した(宝治二年一一月「某申状案」近衛家文書)。一一世紀後半に至り平致経に代わって藤原清綱が領主となり、この地を藤原師実の政所に寄進し、その下文を得て荘の四至を「東限海、南限□□、西限破路、北限縁谷」と確定した。この下文によれば、荘域内に三ヵ所の網蔵(網場)が存在していたことがわかる。それらは古瀬・枯木瀬・只負瀬とよばれ、絶好の漁場であった。なお荘内には、真目賀嶋・今嶋などとよばれる六ヵ所の島が木曾川長良ながら川・揖斐いび川の河口付近にあり「江中の田代」(不安定な開発予定地)と称されていた。一一世紀後半から一二世紀にかけて隣接の香取かとり(現桑名郡多度町)および野代のしろ(現多度町)に対して頻発した紛争の原因は、このような島の帰属をめぐってであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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