益子村(読み)ましこむら

日本歴史地名大系 「益子村」の解説

益子村
ましこむら

[現在地名]益子町益子

南流する小貝こかい川西岸の高館たかだて山麓に所在し、常陸国笠間かさま(現茨城県笠間市)岩瀬いわせ(現同県西茨城郡岩瀬町)へ通じる交通の要衝中世は益子郷に含まれた。「猿子」「増子」とも書く。字城内じようないの益子古城、字館八幡たてはちまんの益子古館、字高館の西明寺さいみようじ(高館城・白米城)の三つの中世城館跡があり、いずれも益子氏の居城。益子氏については「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月一〇日条に陸奥国阿津賀志あつかし(現福島県伊達郡)の合戦で源頼朝方の「宇都宮左衛門尉朝綱郎従紀権守」が藤原国衡の陣の背後をつくなどの活躍をしたことが記される。九月二〇日紀権守は芳賀次郎大夫とともに頼朝から勲功を賞され、旗二旒を与えられた(同書)。「下野国誌」所載益子系図によれば、益子氏は大納言紀古佐美を祖とし、常陸国信太郡司紀貞頼の嫡孫正隆を初代として益子に拠り、紀姓益子氏となったもので、紀権守は三代正重に比定される。西明寺蔵十一面観音像の銘札には弘長二年(一二六二)の年記とともに「大檀那益子郷名主紀頼宗」とあり、益子郷を本拠としていた。益子氏は宇都宮氏の有力家臣として芳賀氏とともに紀清両党といわれた。観応二年(一三五一)の観応の擾乱では、駿河薩山合戦で宇都宮氏に従った軍勢中に「紀党増子出雲守」がいる(「太平記」巻三〇薩山合戦事)。応永二二年(一四一五)一一月一八日の重讃檀那職売券(米良文書)によれば「宇津宮地下一族一円并宇津宮名字増子共」に関する熊野先達の檀那職が弁阿闍梨重讃から勝達房に売渡されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報