田倉村(読み)たくらむら

日本歴史地名大系 「田倉村」の解説

田倉村
たくらむら

[現在地名]吉永町福満ふくみつ

金剛こんごう川が村のほぼ中央を西流し、西は倉吉くらよし村、南は閑谷しずたに新田(現備前市)龍泉りようぜん山の鞍部を通る田倉越で小板屋こいたや村に至る。古代山陽道が東西に通ったとされる(東備郡村志)。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成一六一石余、夫米九石余。寛永備前国絵図によれば高三〇六石余。「備陽記」では田畑二五町五反余、家数三八・人数二三八。


田倉村
たぐらむら

[現在地名]富津市田倉たくら

大和田おおわだ村の北東みなと川支流飛清びせい川流域、鹿野かのう山南西の山間部に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に田茂村とあり、高一一四石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記載され、佐貫藩領。支配領主の変遷は田原たばら村と同様。元禄郷帳では高一二三石余で、幕末も同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四九。天保一三年(一八四二)当時菓子商が一軒あった(関家文書)。慶応四年(一八六八)の反別一六町四反余、明治五年(一八七二)の家数六五、年貢米一九〇俵余・永三〇貫余(椙山家文書)


田倉村
たくらむら

[現在地名]下関市大字田倉・田倉御殿町たくらごてんまち一―二丁目

あお山の東側山麓小村。東・南は勝谷しようや、西は形山かたちやま、北は井田いだの各村に接する。長府藩領で東豊浦郡奥支配に属する。

慶長五年(一六〇〇)検地帳に「田蔵」とみえ、同一五年の検地帳には「田倉」とあり、新尺しんじやく・形山と合石で記載される。総石高六〇二石余、うち田四三町余で五六〇石余、畠八町余で二四石余、百姓屋敷三五。「地下上申」では「豊浦郡田倉村小野村石高付」として報告される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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