湯町(読み)ゆまち

日本歴史地名大系 「湯町」の解説

湯町
ゆまち

[現在地名]山鹿市山鹿・川端かわばた町・しん町・いずみ町・中央通ちゆうおうどおり昭和しようわ町・大宮おおみや町・栗林くりばやし町・はら

菊池川右岸の十三部じゆうさんぶ台地西側斜面東端に位置し、北部を吉田よしだ(国瀬川)が西流、東はなか村、西は宗方むなかた村、南は菊池川を挟んで南島みなみじま村に接する。豊前街道沿いに出湯を中心として成立した在町。古くは山鹿と称されたが、温泉の発展に伴い山鹿湯町が略され、慶長国絵図元禄国絵図には「湯町村」と記される。「和名抄」の温泉郷は当地に比定される。山鹿の地名は郡名としては「筑後国風土記」逸文や平城宮出土木簡などにみえ、また寛治六年(一〇九二)に立券庄号の手続きがなされた山鹿庄がある(→山鹿庄

元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)の初米進納所々注文に「一所 やまか」があり、惣官出仕の衣装料に充てられている。南北朝期には度々北朝方の陣所とされた(永和二年三月日「毛利元春軍忠状案」毛利家文書など)。明徳(一三九〇―九四)頃には奈良西大さいだい寺の末寺金剛光明寺があった(同二年九月二八日「西大寺末寺帳」鎌倉極楽寺文書)。「田尻親種参府日記」天文一六年(一五四七)一一月二五日条に「山鹿にて御めし聞召候、木綿一端・紙一そく 湯坊主、木綿一端 宿主新兵衛、紙一そく 同女房さくらき、やり一本 山鹿町役人」とあり、豊後からの帰路に泊した親種は宿主などに給物をしているが、山鹿町役人にも与えていることから、当時すでに町場が形成されていたことが知られる。また「家久君上京日記」天正三年(一五七五)二月二七日条には「山賀といへる町に着けれは、町中に出湯有、夫に入候て亦出行ほとに」と記される。同八年から一二年頃にかけては当地をめぐって大友氏・龍造寺氏・島津氏の戦いが行われている(同八年八月一〇日「波多鎮書状」有浦文書など)

慶長九年(一六〇四)の湯之町検地帳によると田五六町一反三畝余・畠屋敷六三町九反三畝余・屋敷筆数六六、分米一千一四八石八斗余。正保郷帳では高一千一四八石八斗余、うち田六七八石八斗余・畠四七〇石余とある。なお慶長一四年一〇月一二日の金剛乗こんごうじよう寺に二石を遣わした加藤清正宛行状(金剛乗寺文書)によると、二石は町升で計ることが但書されている。

湯町
ゆまち

武蔵むさし塔原とうのはる両村にまたがって形成された温泉町。温泉は鷺田さぎた川の両岸に湧出する。武蔵ぶぞう寺に伝わる縁起によれば、白鳳一二年(天武天皇一二年、六八三)に湯が初めて出たと伝え、次田すきた(「すいた」ともいう)の湯ともいったという。ここから「和名抄」所載の御笠みかさ郡次田郷を当町一帯にあてる説がある(続風土記拾遺)。「万葉集」巻六には「帥大伴卿の、次田の温泉に宿りて、鶴が音を聞きて作る歌一首」として大伴旅人の「湯の原に鳴く蘆鶴はわがごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く」を載せる。一二世紀半ば頃成立の「本朝無題詩」巻一〇には「温泉道場言志」という大江隆兼の詩が収められている。

湯町
ゆまち

[現在地名]中野市大字中野字西町

文化年中(一八〇四―一八)より西町にしまちのうち新町に用水堰を敷き新小路を開くなどして開発に意を用いた。更に文政四年(一八二一)村内に湯場を設けたいと湯田中ゆだなか村前河原より引湯を計画し、金一〇〇両で湯口の譲渡しを受けた。源湯地から筥山はこやま峠を掘り抜いての中野村までの湯樋埋設工事は容易でなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報