淡輪庄(読み)たんのわのしよう

日本歴史地名大系 「淡輪庄」の解説

淡輪庄
たんのわのしよう

現岬町淡輪辺りにあった庄園。建永元年(一二〇六)慈円起請文(門葉記)に「淡輪庄和泉国」とあり、薪一〇〇束・車輪二両を備進することとなっている。同文書によると当庄は、慈円(慈鎮)の養い親であった禅尼(藤原通季娘・藤原経定室)の相伝所領の一庄で、禅尼逝去の際に慈円に譲られ、慈円は禅尼の菩提を弔い、寺用に充てるために山門領とした。建暦三年(一二一三)には当庄を含む慈円の所領は弟子の朝仁親王に譲られている(同年二月日「慈鎮所領譲状案」華頂要略)。朝仁親王の所領は、父後鳥羽上皇の管轄下に置かれたため、承久の乱によりいったんは幕府に没収されたが、後に山門に返付され青蓮院門跡の管領下に入った。天福二年(一二三四)八月日の青蓮院門跡慈源所領注文(華頂要略)には、大成就だいじようじゆ院領に「淡輪庄 所当薪三十束」とみえ、紀伊国とされているが、和泉国の誤記であろう。このように当庄は青蓮院門跡を本所とし、同門跡に関係の密接な藤原氏、とくに九条家を領家として支配が行われていったようである。

安貞二年(一二二八)五月日の近衛家実家政所下文(淡輪文書)によると下司淡輪兼重は、畑地子の麦の加徴が反別二升の先例にもかかわらず、九条律師の預所の時に認められたとして反別五升に増徴していること、下司給田は源頼朝の時に四反と定められたのにこれを広げ、また土民が年貢を納入することを妨げていることなどをあげ、これらの停止を命じている。また、九条律師の妨げがあるという藤松ふじまつ名についても預所の命によって耕作すべきだとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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