浄明寺村(読み)じようみようじむら

日本歴史地名大系 「浄明寺村」の解説

浄明寺村
じようみようじむら

[現在地名]鎌倉市浄明寺

なめり川上流の谷間に位置し、北は二階堂にかいどう村、東は十二所じゆうにそ村、南は大町おおまち村と三浦郡久野谷くのや(現逗子市)、西は雪下ゆきのした村と接する。村央を六浦むつら道が貫通する。鎌倉五山の一つである浄妙じようみよう寺の所在地であるところから、その名が起こった。常明寺とも書く。南北朝時代以後、関東公方の屋敷が置かれ、鎌倉のなかでも政治的に重要な場所であった。

徳川家康が天正一九年(一五九一)一一月日付で鶴岡八幡宮に与えた社領寄進の判物(鎌倉市史史料編一)には、「相模国小坂郡鎌倉之内常明寺」で八九貫七〇文とみえ、また江戸時代初期の十二所村等鎌倉中幕領寺社領相給村総高帳(県史六)には、他の諸村と並んで常明寺村の名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報