津軽石村(読み)つがるいしむら

日本歴史地名大系 「津軽石村」の解説

津軽石村
つがるいしむら

[現在地名]宮古市津軽石

津軽石川下流にあって、北は金浜かねはま村・八木沢やぎさわ村。浜街道が通り、馬越まごし坂の途中に一里塚がある。古くは津軽石川下流一帯を渋溜しぶどめ村とよんだが、あるとき旅の僧が津軽から小石一つを携えて来て以来、渋溜の川におびただしく鮭の遡上をみたことから津軽石と名付けたと伝える。初め村の北方沼里ぬまり館に沼里氏がいたが、文明(一四六九―八七)の頃、一戸氏系千徳氏の一族に攻められ没落、一戸氏は沼里館に拠って力を四周に伸ばし、やがて払川はらいがわ新城を築いて移るが、天正一一年(一五八三)宗家千徳氏との間にいさかいが起き、鬼九郎行重は千徳せんとく城中で殺害され、払川館は千徳勢に囲まれて落城した(「東奥一戸系譜略」盛岡市中央公民館蔵)。文明年間、戦火に焼かれたという瑞雲ずいうん寺跡は沼里館の東、館の大手口にあたる。南面足下にはたてしたの地名が、また払川集落背後の瑞雲寺参道の傍らに大手おおての地名が残る。

慶長元年(一五九六)九月一五日の南部信直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、当村の四八〇石が船越助五郎に宛行われているが、まもなく上知されており、寛永四年(一六二七)には山崎小五郎が当村蔵入高五三〇石余の代官に任命されている(参考諸家系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報