河曲駅(読み)かわわのえき

日本歴史地名大系 「河曲駅」の解説

河曲駅
かわわのえき

壬申の乱に大海人皇子が東国を目ざした進路はおそらく後の東海道であったと思われる。大和から伊賀、次いで加太かぶと越でせきに出、鈴鹿川沿いに東進、三重郡から桑名方面に出たのであろう。「延喜式」には東海道として「伊勢国駅馬 鈴鹿廿疋、河曲・朝明・榎撫各十疋」とあり、伝馬は「朝明・河曲・鈴鹿郡各五疋」となっている。鈴鹿駅は現鈴鹿郡関町古厩ふるまやとされるが、それより伊勢国府を経て、河曲郡内の山辺やまべ木田きだ付近で台地上に出たと思われるが、付近に駅を暗示する地名もない。

河曲駅
かわわのえき

古代の東海道に置かれた駅。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に駅馬五疋を備える駅として河曲とみえる。しかし神護景雲二年(七六八)河曲駅は井上いかみ(現市川市)浮島うきしま(現花見川区域か)などと同じく、東海道の延長に位置して使命繁多であるとして駅馬一〇疋を置かれることになっている(「続日本紀」同年三月一日条)。この段階では当駅筋は東海道の支道であるが、宝亀二年(七七一)東海道本道が相模国より陸路で下総国に達することとされ(同書同年一〇月二七日条)井上駅・浮島駅・河曲駅の道筋が本道とされた。延暦二四年(八〇五)さらに本道は井上駅で分岐して相馬そうま郡二駅(茜津駅・於賦駅)を経て常陸に出る路程に変更となり(「日本後紀」同年一〇月二五日条)浮島駅より以南の諸駅はふたたび支道の扱いとなる。

河曲駅
かわわのえき

東海道下総国の駅。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月一日条によれば、東海・東山両道の駅使らが利用するため使命繁多となっていることを理由に、河曲駅などの駅馬が一〇疋に加増されている。ただし「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条では五疋に減定。当駅を現千葉市中央区寒川さむかわ町の辺りに比定する説があるが、十分な論拠があるとはいえず、「延喜式」兵部省の駅順記載が井上いかみ(現千葉県市川市)浮島うきしま―河曲とあることから、下総国と武蔵国の国境近くに置かれていたと推考される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報