池原杣庄(読み)いけがはらそまのしよう

日本歴史地名大系 「池原杣庄」の解説

池原杣庄
いけがはらそまのしよう

飯道はんどう山の東麓からそま川流域に沿い、現在の甲南町北部一帯と水口みなくち町南西の一部にわたる広域の庄園で、古代の甲賀杣が立庄されたものと推定される。内部には東西とうざい保、三大寺さんだいじ(現水口町)柑子こうじ村・塩野しおの村・杉谷すぎたに村・野川のがわ郷・野田のだ深川ふかわ森尻もりしり庄を含み、中世に甲賀谷とよばれた地域の中心と思われ、しばしば杣庄と通称されたほか、池原杣・池原庄ともよばれた。

「後二条師通記」永長元年(一〇九六)四月二一日条によると甲賀杣所が京都法勝ほつしよう(跡地は現京都市左京区)領に編入され、杣の大部分が皇室系庄園とされたものと思われる。現三重県阿山あやま郡阿山町内保うちほ西音さいおん寺の薬師如来坐像は両足部底面墨書銘に建治三年(一二七七)二月一九日の年紀をもち、仏師「池原住人僧出雲永俊」が大檀那藤井貞行らの施入を受けて庄内住民の安楽と長福を祈願して修造した。一三世紀にはすでに池原杣庄の庄号をもって経営されていたものであろう。建久二年(一一九一)五月一九日の西大寺領注文(西大寺文書)には所領として甲賀郡杣の名をあげるが、これは流記の記載を転記したものにすぎず、実質的な支配から離れていたと考えられる。南は山林を介して伊賀湯船ゆぶね村や内保庄(ともに現阿山町)に接するため伊賀との交流も盛んで、南北朝期には当庄内の在地領主が越境して悪党的活動を行っていたらしい。嘉暦二年(一三二七)には、東大寺領内保庄に池原杣内柑子村地頭代延命五郎が、伊賀国河合かわい(現阿山町)の悪党数百人とともに乱入し、年貢押領して住民を柑子村に連去ったとされる(同年一一月六日「東大寺満寺衆議事書案」東大寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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