江津村(読み)えづむら

日本歴史地名大系 「江津村」の解説

江津村
えづむら

[現在地名]鳥取市江津

晩稲おくて村の東、千代川西岸にある。同川は当村の東でふくろ川と合流し西北西に屈曲して日本海に注ぐ。集落は流路の南側に沿い東西に広がる。古くは会津とも書かれた(因幡志)。現島根県玉湯たまゆ玉作湯たまつくりゆ神社蔵太鼓の天文一一年(一五四二)四月六日付の銘に「江津之内与三さへもん」とある。永禄八年(一五六五)三月の山名豊儀宛行状(譜録)によると秋里与四郎に「高草郡江津内」などで計七町八反の地が山名豊儀から宛行われた。秋里氏は南接する秋里あきさとの地名を名乗る武士であろう。

藩政期の拝領高は四〇三石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高四九八石余、本免四ツ六分、川役銀二五匁・藪運上銀五匁を課されている。

江津村
えつつむら

[現在地名]田辺町大字宮津みやづ 江津

南はみやくち村、北は出垣内でがいと村。村内を南北に奈良街道(歌姫越)が通る。地名は開化天皇の子、日子坐王の妻の名にちなむという。すなわち「古事記」開化天皇の条に「日子坐王、山代の荏名津比売、亦の名は苅幡戸弁を娶して、生める子、大俣王」とある。「大日本地名辞書」は荏名津えなつは江津、苅幡かはた綺田かばた(現相楽郡山城町)のことと記す。

元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に高六三二・七〇八石とあり、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳には枝郷の「宮口村」と合石で七九九石余とある。

江津村
えづむら

[現在地名]熊本市江津一―二丁目・神水本くわみずほん町・湖東ことう三丁目

東は下江津しもえづ村、西は神水村、北は江津川大塘である。康永三年(一三四四)二月一八日の詫磨一族勲功賞安富荘・神蔵荘内闕所配分状(詫摩文書)によれば安富やすとみ庄の安弘やすひろ名に「依津里 卅弐坪壱町内壱段壱丈中 卅参坪九段内七段弐丈」があげられる。これが江津をさし、条里に由来する地名であることを示している。現高を記す慶長八年(一六〇三)検地帳では田方四四町六反七畝余・畠方二四町六畝余、分米七二七石八斗余、家数三七、男一〇五(うち年寄二五・せがれ一〇・漁師二〇)・女七六(うち年寄一五・小娘四・漁師七)、牛二五・馬一九とあり、このほか無田として田一九町九反余・分米二二二石九斗余、畑三町二反四畝余・分米二〇石九斗余がある。

江津村
えづむら

[現在地名]牛津町大字柿樋瀬かきびせ江津港町えづみなとまち

現牛津町の中央部平坦地にある。天保六年(一八三五)の小城郡里四郷地図に村名がみえる。小城郡平吉ひらよし郷の内にあり、嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳では、地米(年貢)一五八石八斗九合とある。

村内に西宮にしみや神社(祭神蛭子命)海童かいどう神社(祭神大綿津見命)寿泉じゆせん(臨済宗東福寺派)意楽いらく(臨済宗南禅寺派)がある。西宮神社は「野田家日記」によると、「安永元年より十三年前、すなわち宝暦九年始めて西宮三郎天子の御社建つ。

江津村
ごうづむら

[現在地名]河内村江津

吉岡よしおか村の北に位置し、集落は手取川右岸の河岸段丘上にある。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)に村名がみえ、知行高一二六俵。正保郷帳では八九石余、田方三町余・畑方二町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高九七石、免四ツ二歩、小物成は山役七九匁・川役二二匁(三箇国高物成帳)。同年間の家高数四・百姓数一二(高免付給人帳)。家数は正徳四年(一七一四)一四、寛政三年(一七九一)一八(改作所旧記)

江津村
ごうづむら

[現在地名]松阪市郷津ごうづ

坂内さかない川下流の右岸、愛宕あたご川河口の左岸にあり、北は大口おおくち村に接する。文禄検地帳写(徳川林政史蔵)に「江津村」と記され、八三筆(居屋敷・明屋敷を含む)で地数が一六町九反余。内訳は田方が七町三反余・畑方が九町二反余・屋敷方が四反余である。中田畠がやや多い。石高に直して都合一九一石余。名請人は一五名、そのうち寺院(西方寺)が一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android