武儀庄(読み)むぎのしよう

日本歴史地名大系 「武儀庄」の解説

武儀庄
むぎのしよう

平安後期より存在した摂関家領、のち近衛家領の庄園。庄域は旧武儀郡のかなり広い地域を占めたと考えられる。武義庄・武気庄とも記す。保元元年(一一五六)七月日の藤原忠通書状案(天理図書館蔵)に「武義」とみえ、死去した宣旨(忠通の乳母讃岐宣旨もしくはその孫か曾孫の法性寺殿宣旨)遺領播磨に与えられている。長寛元年(一一六三)頃と推定される美濃国諸庄未進注文(兵範記裏文書)にみえる、六丈絹五〇疋・綿六二〇両を未進している「□義」は当庄のことと思われる。なお寿永二年(一一八三)三月一二日、跡部あとべ(現武芸川町)住人の某を願主として法輪寺住僧昇西により大般若経が書写されており(「大般若波羅蜜多経奥書」恵利寺蔵)、年未詳の同経奥書には「むき庄跡部郷 慧利寺」とみえる。近衛・九条両家の分立に際して作成された建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)によれば、庄務権が本所にない所領として武儀庄がみえ、本来京極(藤原)師実の摂関家領で、領家職は富家(藤原忠実、師実の子で忠通の父)播州に賜い、正治二年(一二〇〇)一〇月二二日播州より知足院尼上(九条道経の妻)に譲られた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報