正覚寺村(読み)しようがくじむら

日本歴史地名大系 「正覚寺村」の解説

正覚寺村
しようがくじむら

[現在地名]平野区加美かみ〈正覚寺一―四丁目・きた一―九丁目・西にし一―二丁目・ひがし一丁目・同四丁目・鞍作くらつくり二―三丁目〉など

摂津住吉郡平野郷ひらのごう町と村の南西部で接し、河内国渋川郡に属する。村の南東部を奈良街道が通り、南西部を平野川が北西に流れる。村名は明応二年(一四九三)の正覚寺合戦で焼失した正覚寺のあとに集落を作ったことに由来し、その際西隣のいぬい村と分れたという(大阪府全志)

文明一五年(一四八三)八月、畠山義就・政長両軍は河内各地で合戦を繰広げていたが、九月には犬田いんだ(現枚方市)で政長方は大敗、山城久世郡水主みずし城も義就方の手に落ちた。「大乗院寺社雑事記」同月一八日条に「正覚寺之左衛門督方為迷惑也」とあり、当時政長が正覚寺にいたことが知られる。「多聞院日記」同一六年五月二七日条には「正覚寺之城」ともみえる。この後も正覚寺は合戦記事に散見するが、明応二年将軍足利義稙(義材)は義就の遺児基家討伐のため自ら出陣し、畠山家の家督争奪に終止符を打とうとした。

正覚寺村
しようがくじむら

[現在地名]宇佐市正覚寺、宇佐郡安心院あじむ町正覚寺

矢部やべ村の東方山間に位置し、東方には御許おもと(六四七メートル)くもヶ嶽(六五三・九メートル)がそびえる。集落は標高一〇〇―二〇〇メートルの地に散在。東は豊後国速見郡平山ひらやま村・山浦やまうら(現山香町)、北は日足ひあし村。村名は御許山の座主坊であった正覚寺(現廃寺)に由来する。近世領主変遷川部かわべ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高二六七石余、人数一五九、百姓二二(うち小庄屋三)・名子一・坊主一、牛二一・馬一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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