桐竹勘十郎(読み)きりたけかんじゅうろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桐竹勘十郎」の意味・わかりやすい解説

桐竹勘十郎
きりたけかんじゅうろう
(1920―1986)

文楽(ぶんらく)人形遣い。本名宮永豊。佐賀県唐津(からつ)生まれ。12歳で2世桐竹紋十郎に入門、紋昇を名のり翌年に東京劇場『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』の峰松で初舞台。第二次世界大戦後の文楽の二派分裂で師匠とともに三和(みつわ)会に属し、立役(たちやく)の中心的存在として頭角を現し、1951年(昭和26)2世勘十郎を襲名した。切れのよい技と肚(はら)の強さで立役とくに荒物(あらもの)遣いの第一人者。82年重要無形文化財保持者に認定された。長男豊実(1953― )は1967年3世吉田簑助(みのすけ)に入門し、吉田簑太郎を名のる。68年初舞台。立役、女形両方を遣う。2003年(平成15)3世勘十郎を襲名した。なお、初世は16世紀末から17世紀にかけての人形の立役者で、桐竹派の祖とされるが、さだかでない。

[山田庄一]

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