松江村(読み)まつえむら

日本歴史地名大系 「松江村」の解説

松江村
まつえむら

[現在地名]和歌山市松江・松江東まつえひがし一―四丁目・松江中まつえなか一―三丁目・松江西まつえにし一―三丁目・松江北まつえきた一―七丁目

名草なくさ郡に属し、東は土入どうにゆう川を隔てて土入村・狐島きつねじま村に対し、東南はみなと御膳松ごぜんまつおよび外浜そとはま。南は紀伊水道に面し、北から西にかけては海部あま木本きのもと庄諸村と接する。村域北部を東西に淡路街道が通る。南の海岸地帯は砂丘で松樹が群生する。東西に長く、村域は広く、東・中・西の三村に分れるが、江戸時代を通じ村高や村域は松江村として一括されている。

古代、当地は紀ノ川河口の海中にあったと推定される。葛城(和泉)山脈の南裾、なか栄谷さかえだにの辺りは、一〇世紀頃もいまだ沿岸の地であった。「続風土記」によれば、しだいに河中に中洲ができ、最も西側にあって河口を塞ぐ形で南北に長く延びた砂嘴を和田わだ浦といったが、この砂嘴はさらに発達し、磯脇いそわき浦から西浜にしはま村付近にまで達して二里にりヶ浜とよばれた。河口が南方に移り土入川辺りは入江となったが、二里ヶ浜の中ほどに入江に面して松樹の多い村ができ、これが松江の地名の由来であるという。同書の見解に従えば、この地域が開発されるのは中世以降と考えられる。

室町時代中頃の文書と思われる年未詳六月二五日付常大坊旦那持分書立写(米良文書)に「紀伊国ニまつえ」とあり、熊野御師の旦那の存在が知られる。

松江村
まつえむら

[現在地名]三原市沼田西ぬたにし町松江

小原おばら村の西、沼田川南岸にあり、三方を丘陵性山地で囲まれ、中ほどの南北方向に展開する谷は北に開け、沼田川を挟んで下北方しもきたがた(現豊田郡本郷町)に対し、同村内に飛郷がある。中世には沼田庄安直あじか郷に含まれたが、文明七年(一四七五)四月一一日付の小早川元平書状案写(小早川家文書)によると、「熊井田本郷」とも称し、熊井田くまいだの地名は「国郡志下調書出帳」の村内小名の項にみえる。

安芸国豊田郡に属し、慶長二年(一五九七)八月一二日付の泰雲様位牌免田畠打渡坪付写(米山寺文書)に松江とあり、同年一〇月一五日付の泰雲様位牌免田給付状(同文書)では安直村のうちとされる。

松江村
しようえむら

[現在地名]豊前市松江

四郎丸しろうまる村の西に位置し、北は周防灘に面して松江浦がある。江戸時代には築城ついき郡に所属。四郎丸村との間のさかい(御界川ともいう)上毛こうげ郡と築城郡との郡境。中津街道が通り、松江宿が置かれた。東方の八屋はちや村とは海路でも結ばれていた(正保国絵図)。元和八年人畜改帳では築城郡のうちに松江村とみえ、家数九二(うち馬屋一六)・人数一六九(うち百姓一三・名子一六・水主一二)、牛一三・馬一五。宝暦三年(一七五三)の高三八七石余、物成二二一石余(築上郡志)。郷村高帳では高五五〇石余、うち新田高六八石余。

松江村
まつえむら

[現在地名]八代市松江町・松江本まつえほん町・町・鷹辻たかつじ町・とおり町・北の丸きたのまる町・しん町・興国こうこく

八代城下の北部に隣接した水田地帯。球磨郡須恵すえ村の仏堂に文明五年(一四七三)の鰐口があり、「八代庄松江村医王寺」とみえる。慶長一七年(一六一二)九月二七日、加藤忠広は深見太左衛門尉に当村のうち三〇〇石を宛行った(「加藤忠広判物」松島文書)。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方四九四石二斗余・畠方一六三石四斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報