東米光村(読み)ひがしよねみつむら

日本歴史地名大系 「東米光村」の解説

東米光村
ひがしよねみつむら

[現在地名]松任市米光町よねみつまち

北島きたじま村の南に位置し、大慶寺だいぎようじ用水中島なかじま用水が流れる。木曾きそ街道が通る。西に西米光村(現美川町)があり、中世には合せて米光村といった。寛正三年(一四六二)八月一六日の板津親家書状(壬生家文書)によると、京都南禅寺雲門うんもん庵と壬生家がそれぞれ知行するたちばな村領家職の代官を「よなミつ村万福寺」住僧因監寺が勤めている。延徳二年(一四九〇)一二月二八日、「日蝕料所米光村西方」が療治の賞として、竹田定盛に預けられている(「後土御門天皇綸旨案」宣秀卿記)。同三年越後に下向した冷泉為広は、三月一一日に「エナミヂ」を通過したおり、「此在所ニ満福寺トテ寺アリ」と記している。万福まんぷく寺は京都東福寺末寺であった。永正一四年(一五一七)にも万福寺が米光村の代官職を所持していたが(守光公記)、同一六年にいたり同寺が年貢を未進しているため直務支配とする旨が波佐谷松岡はさだにしようこう寺・山田光教やまだこうきよう寺・若松本泉わかまつほんせん寺、清沢願得せいさわがんとく(現鶴来町)玉鉾たまぼこ(現金沢市)および米光の百姓中に命じられ(後柏原天皇女房奉書案「守光公記」同年二月二九日条)幕府も同様に石川郡中に命じた(同年三月三日室町幕府奉行人奉書案「守光公記」同月二七日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報