東目村(読み)ひがしめむら

日本歴史地名大系 「東目村」の解説

東目村
ひがしめむら

[現在地名]鶴岡市東目

関根せきね村本郷の南、大山川東岸にある。村名は、西目にしめに対する東部一帯の押えの地であったことによるとされる(田川村史)。至徳二年(一三八五)三月八日付の大般若経奥書(田川八幡神社文書)に「出羽国田河郡東目郷」とみえ、同郷の八幡宮常住の源内太郎を願主としている。八幡宮は現田川たがわの八幡神社と考えられるから、中世の東目郷は田川地区を含んでいたと思われる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高一四一石余。寛永元年庄内高辻帳では高一八四石余。正保郷帳では田高一六一石余・畑高二二石余、柴山新田がある。天保九年(一八三八)の巡見使田川組案内帳(鶴岡市郷土資料館蔵)では高一五五石余、免六ツ七厘、山年貢三石、家数二八・人数五二、馬一四(うち駒八・雑駄六)

東目村
ひがしめむら

永仁五年(一二九七)八月八日の八幡宮鳥居作料等配分状案(飯野八幡宮文書、以下同文書)によれば「番匠作料厨雑事」として「百五十文 白米五升 東目地頭分」が課せられている。徳治二年(一三〇七)六月一三日の岩城隆衡和与状によれば「岩城郡好島西庄内東目村」の「所務以下事」をめぐり、地頭岩城小次郎隆衡と預所式部右衛門尉頼泰が相論となり、「名久枝田畠在家」を除いて地頭の支配となり、地頭は毎年一二月二〇日以前に運上一六〇貫文を飯野いいの八幡宮の政所へ上納することとなった。建武元年(一三三四)九月七日の八幡宮造営注文案によれば、別当庁屋三間の一部を「東目村地頭岩城弥次郎隆景」が負担している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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