末次保・末次庄(読み)すえつぐほ・すえつぐのしよう

日本歴史地名大系 「末次保・末次庄」の解説

末次保・末次庄
すえつぐほ・すえつぐのしよう

現松江市の大橋おおはし川北岸、松江城跡を中心とする黒田くろだ町・中原なかばら町・北堀きたほり町・北田きたた町・南田町・母衣ほろ町・末次町などの橋北きようほく地域に比定される。国衙領末次保から京都東福寺領末次庄へと推移し、戦国期には末次・末次郷といわれる。

〔成立過程と領主〕

建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家初度惣処分状・九条道家処分状(九条家文書)に道家の嫡孫忠家の新御領の一つとして「出雲国末次庄長倫卿寄進」とみえる。一三世紀初め頃に藤原長倫から摂関家九条家に寄進され、新しく成立した庄園であろう。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には一二番に「末次保七丁三反大土屋六郎」とあって、出雲国衙がこの時期になっても国衙領末次保として認識していた様子がうかがわれる。庄園としての成立過程は明らかでないが、一一世紀中頃に古代の法吉ほつき(和名抄)の一部が開発されるなどして末次保が成立し、それが一三世紀初め頃に藤原長倫を仲介者として摂関家に寄進され、新しく立券されて末次庄とよぶようになったのであろう。ちなみに保としてみえるのは前掲結番帳だけで、康正二年(一四五六)二月二三日の東福寺領出雲末次保年貢算用状(東福寺文書)を唯一の例外として、戦国期以前はすべて末次庄とみえる。

末次庄は文永五年五月一四日の後嵯峨院院宣(九条家文書)によって、本家職は五辻三位、領家職は藤原長倫の孫兼倫への相伝がそれぞれ認められたが、その後の本家職の伝領関係は不明。領家職については、嘉元二年(一三〇四)五月三日の東福寺領末次庄地頭平宗綱和与状案(東福寺文書)を史料上の初見として以後東福寺が伝領する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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