有馬町(読み)ありままち

日本歴史地名大系 「有馬町」の解説

有馬町
ありままち

[現在地名]島原うえまち

島原城の北東大手門の東に位置する。寛永一五年(一六三八)の島原町人数覚(島原の歴史藩制編)では船津ふなつを含めて一千四三一。江戸前期の島原城廻之絵図(熊本県立図書館蔵)に「有馬町」とあり、南北にのびる両側町で、東手は島原入江に臨む。宝永元年(一七〇四)延焼により二九六軒が焼失(深溝世紀)。同四年検地とある島原領内村明細帳ではしん町別当の管轄五ヵ町のうちとして有馬町がみえ、寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ七四間・幅二間とある。同年の島原大変によるまゆ山の崩壊で壊滅的な打撃を受けたとされ(島原大変聞録)、流死者数一三七(安養寺過去帳・快光寺過去帳など)

有馬町
ありままち

[現在地名]北区南森みなみもり町二丁目

越後えちご町の北にあり、北は寺町てらまち筋に及ぶ。南北に延びる二筋の町で、東筋は両側町、西筋は天満堀てんまほり川に沿う片側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図町名がみえる。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二九・役数四四半役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は鴻池屋弥右衛門。前掲町絵図に丹波園部藩・筑後久留米藩有馬家の蔵屋敷がみえる。

有馬町
ありまちよう

上京区浄福寺通今出川上ル

東西に通る五辻いつつじ通と今出川いまでがわ通の間、町の中央を南北に浄福寺じようふくじ通が通る。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に、町の北が「有馬丁」、南が「北小路上丁」とある。以後両町名は変わらず、明治元年(一八六八)に合併して現町名となり、町名は天正年中(一五七三―九二)有馬玄蕃頭邸宅があったことによるという(坊目誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報