明石郡(読み)あかしぐん

日本歴史地名大系 「明石郡」の解説

明石郡
あかしぐん

播磨国の郡名。古代から存在し、昭和二六年(一九五一)消滅した。「和名抄」東急本国郡部の読みは「安加志」で「延喜式」の諸所にみえる振仮名もアカシである。古代から近代まで播磨国の南東部に位置し、郡域は東に摂津国八部やたべ郡、南は海、西は賀古かこ郡、北は美嚢みなぎ郡に囲まれていた。現在の行政区画で示すと明石市と神戸市西区・垂水区の全域を占める。東部から北部にかけて山地が続き、南部から西部へは平野が広がっている。南東部の現垂水区では東端の摂津との国境は六甲ろつこう山系の西端鉢伏はちぶせ山が海岸にまで延びて、おのずから防塞を形成している観がある。塩屋谷しおやたに川・福田ふくだ川・山田やまだ川・朝霧あさぎり川などの小河川が海に注ぎ、郡の中央部に位置する現西区東部では、東から川・櫨谷はせたに川・明石川の三河川が流下して明石市域に入る付近で合流している。郡の西部では瀬戸川を主とする小河川があるが、水量に乏しく溜池が多い。

〔古代〕

「日本書紀」の神功皇后摂政元年二月条に坂王・忍熊王らが天皇のためと偽り、山陵を「赤石」に作るとあり、允恭天皇一四年九月一二日条には赤石の海底に真珠があり、その珠を祀ればことごとく獣を得るとみえる。歴史的に確実な記載としては、同書推古天皇一一年七月六日条に征新羅将軍当麻皇子に「従う妻舎人姫王、赤石あかしに薨ず。よりて赤石の檜笠ひがさ岡の上に葬る」とあり、大化二年(六四六)正月一日条、いわゆる大化改新詔において畿内国の範囲を定めた際、「西は赤石のくし淵よりこのかた」とあるのはよく知られている。同書清寧天皇二年一一月条に「赤石郡の縮見しじみ屯倉の首、忍海部造細目が新室にして、市辺押磐皇子の子億計・弘計を見でつ」とあり、この赤石郡は顕宗天皇の即位前紀にもみえるが、ともに郡の呼称は「日本書紀」編纂時の知識による潤色であろう。しかし前述の推古天皇一一年紀の赤石の檜笠岡が賀古郡内に比定され、縮見屯倉の所在地の志染しじみ(現三木市)が美嚢郡であること、後述する海直の存在や明石国造の伝承などを合せ考えると、律令制以前にアカシとよばれた地域(明石国)が明石郡はもとより賀古郡・美嚢郡にまで広がっていたことが想定できる。県下最大の前方後円墳である垂水区五色塚ごしきづか古墳が五世紀初めに造営されているのも、こうした背景を基盤としたものにほかならない。「播磨国風土記」にも赤石郡がみえるが、当郡の条文を欠いている。

明確に明石郡が知られるのは、「続日本紀」神亀三年(七二六)一〇月一〇日条に、聖武天皇が播磨国印南野いなみのに行幸あって、その行宮の側近の「明石賀古二郡百姓」年七〇歳以上に穀を賜う記事である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報