新熊野村(読み)いまぐまのむら

日本歴史地名大系 「新熊野村」の解説

新熊野村
いまぐまのむら

[現在地名]東山区今熊野いまぐまの阿弥陀あみだみね町・池田いけだ町・うめたに町・北日吉きたひよし町・小松山こまつやま町・泉山せんざん町・総山そうざん町・つるぎみや町・なぎもり町・東山ひがしやま町・日吉ひよし町・宝蔵ほうぞう町・本多山ほんだやま町・南谷みなみだに町・南日吉みなみひよし町〉

東山連峰の一、阿弥陀ヶ峰の西南麓一帯に位置。「今熊野」とも記した。おおよそ北は清閑寺せいかんじ村、東は宇治うじ山科やましな(現山科区)、南は泉涌寺門前せんにゆうじもんぜん及び稲荷いなり(現伏見区)、西は大仏廻だいぶつまわりの諸町及び泉涌寺境内と境する。京都御役所向大概覚書に、二条堀川(二条城所在地、現中京区)よりの里程を、一里八町と記す。村名は、一二世紀中葉、後白河院の建立した新熊野いまくまの社にちなむ。

新熊野の地は、泉涌寺門前とともに、古くは愛宕おたぎ鳥辺とりべ(部)(和名抄)の地にあたり、みなみ鳥辺と通称された。「南鳥部」の称は、「山城国風土記」逸文中に既にみえる。鳥辺郷は阿弥陀ヶ峰西麓の郷名であり、「拾遺抄」に「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ」とあるように、元来は阿弥陀ヶ峰を鳥辺山と称したものと思われる。東部山沿いの傾斜地は古来葬送の地とされ、月輪つきのわ陵をはじめ諸陵墓、貴顕の荼毘所・墓所が数多く点在する。また他の東山諸地域と同様に、当村近傍には院政期以降、神社・寺院などが続続建てられた。法性ほつしよう寺・法住ほうじゆう寺・泉涌寺・新熊野社などである。ただしこれらの社寺は、元弘・建武の戦、応仁・文明の乱等で興亡を繰返した。例えばその一つ慈恩寺(臨済宗大応派)は近世の地誌「山城名勝志」の「新熊野村」の項に名のみ記されるが、文明二年(一四七〇)の兵火で焼け、遺跡は判明しない(坊目誌)。社寺跡の多くは室町時代後期には耕地と化した。近世に入ると近傍には旧寺院の復興に合わせて新たに寺院が建てられ(方広寺・禅雲寺など)、阿弥陀ヶ峰頂上には豊国廟ほうこくびようが営まれた。

江戸時代、この地域の西は南北に走る伏見ふしみ街道の沿道に市街化が進行し、また北西の大仏廻りの地域も市街地となった。その後背にあって、なお農村ないしは森林だった山麓部の地域が、泉涌寺とその門前を除き、改めて新熊野村と称し、泉涌寺の所領にあてられた。享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば村高二六八石七斗一升二合、知行の内訳は泉涌寺領二三一石六斗七升九合、岩倉殿家領一九石八斗七升、荒地一七石一斗六升三合である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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