新座郡(読み)にいくらぐん

日本歴史地名大系 「新座郡」の解説

新座郡
にいくらぐん

天平宝字二年(七五八)に新設された新羅しらぎ郡が改称した郡(改称時期は不明)。「和名抄」にみえ、訓は東急本に「尓比久良」、名博本に「ニイクラ」とある。「伊呂波字類抄」には「新倉ニヒクラ」とみえ、中・近世には新倉とも書かれた。なお「風土記稿」に「享保二年郡名ノ唱ヲ定メラレ、又享和三年ニモ郡村の唱穿鑿スヘキノ命アリテソノウタカワシキヲ正サレシニヨリ、今ハ二井サト唱フルコトヽハナリヌ」とあり、江戸時代後期以降ニイザとよばれていたようであるが、近代の公的なよび方は「ニヒクラ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。江戸時代の郡境は、東は足立郡・豊島としま郡、北は入間いるま郡、西と南は多摩郡に接し、現在の和光市・朝霞市・新座にいざ市・東京都保谷市と志木市の大部分および東京都練馬ねりま区の一部にあたる。

〔古代〕

「続日本紀」天平宝字二年八月二四日条に「帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是、始置新羅郡焉」とあり、新羅人七四人を移住させて新羅郡が建郡された。僧尼が多くみられるのが特徴であるが、今のところ有力な古代寺院は確認されていない。二年後の同四年四月二八日条にも「置帰化新羅一百卅一人於武蔵国」とあり、これらの新羅人も当郡へ移されたと思われる。この時期の新羅郡の設置は新羅との緊張関係によるものであった。天平年間(七二九―七四九)から新羅との関係は不調であったが、天平勝宝四年(七五二)新羅王子金泰廉ら七〇〇余名もの大使節団が来日し、日本側は危機感をいだいた。翌年正月には唐の玄宗皇帝のもとでの元日朝賀において、日本と新羅の席次争いが生じた。このようなことから藤原仲麻呂政権は新羅征討を計画し、天平宝字三年から軍船の建造をはじめ、大宰府に諸準備を命令した。このとき日本の戸籍に付されていた新羅人で帰国を願う者の送還も行っている(同書)。このような政治情勢を背景として新羅郡が設置されたと考えられる。また当時武蔵守には高麗こま郡出身で藤原仲麻呂側近の有力者であった高麗福信が就任しており、新羅郡の武蔵国への設置は福信の存在によることが大きかった。仲麻呂は祖父藤原不比等の時代に分立され、橘諸兄政権のもとで合併された能登・安房・和泉の三ヵ国を再分立するなど(同書)、地方政治にも意欲をみせていたといわれ、新郡の設置もその一環であったと思われる。

武蔵国側でも新羅郡に隣接する入間郡では物部直広成、足立郡では丈部直不破麻呂などの在地の豪族が活躍しており、中央とのつながりをもちながら地元の開発を進める動きがあった。

新座郡
にいくらぐん

「和名抄」東急本に「尓比久良」、名博本に「ニイクラ」と訓がみえ、新倉と書かれることもある。「続日本紀」天平宝字二年(七五八)八月二四日条に「帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉」とみえる新羅しらき郡の後身。ただしいつ頃新羅郡から新座郡に変わったか未詳。郡境は東に足立郡・豊島郡、北に入間郡、西と南は多摩郡と接し、埼玉県和光市・朝霞市・新座にいざ市・志木市が郡域の大半を占め、一部が東京都西東京市および練馬区に及んでいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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