揖斐庄(読み)いびのしよう

日本歴史地名大系 「揖斐庄」の解説

揖斐庄
いびのしよう

大野郡にあった庄園で、近衛家領、のち奈良興福寺の一乗院門跡領。現在の揖斐川北方きたがた南方みなみがた極楽寺ごくらくじ三輪みわなどと谷汲たにぐみ深坂ふかさかにあたり、揖斐川を間に挟んで小島おじま庄と向い合っていた。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、藤原基通からその子一乗院前大僧正実信へ譲られた所領の一つとして「高陽院領内美濃国揖斐庄」とある。同目録の「宇治殿領事」という項の系図に「高陽院 鳥羽院御時入院、四条宮跡領、自知足院殿被譲之、今号高陽院領是也」とあることから、庄園としての成立は一一世紀末にはさかのぼる。基通から実信へ譲られたことにより、以後は興福寺一乗院門跡領となった。南北朝期に至っても一乗院門跡が管領していたが、動乱の影響は当庄にも及び、軍勢乱妨などを被った。観応二年(一三五一)三月日の揖斐庄百姓等申状(案、興福寺別当次第裏書)庄内北方・南方三和(三輪)三ヵ保の百姓らの申状であるが、当庄に城が構えられ軍勢が乱妨狼藉を働いたこと、預所が御領を捨ておいたために守護方から負担を強いられたこと、二月の大洪水の被害にもかかわらず新井を掘るための費用を課せられたので料足を下行されたいことなどが述べられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報